れた。自分に向けられる友情よりも由吉への深さが考えられた。
「もう皆さんそろそろ顕われるところだろう。」
矢代は千鶴子のこととなると話を反らして時計を見るのだった。
歩廊に出迎えの人人の賑い始めたころになって、外交官の速水や、音楽家の遊部など、矢代の顔見知りの人たちもぽつぽつ集った。由吉と千鶴子の来たのもそれから間もなくだった。由吉は矢代を見つけると、この度びだけはいつもの磊落な風貌を生真面目に押し包んで悔みをのべた。
「もうしかし、あなたもまたお出かけになるころでしょう。」と矢代は由吉の外国行きの準備を訊ねてみた。
「もうマロニエも、蕾をつけ始めましたからね。」
由吉はパイプを口から放して静に沖を見ながら、暫く微笑を湛えて黙っていた。マロニエが咲くという魅力は、一瞬、青春に翅を与えたような匂いを掠めて通り過ぎた。胸に息詰まるような甘さで迫る春の香だった。
「宇佐美、もう行くこと云うなよ。」と塩野も、噴きのぼって来るものの制しきれぬ興奮で顔が乱れた。
「なかなか鴎という奴は、なまめかしい容子をするもんだね。あの飛び立つところのしなやかさはどうだ。」と由吉は反転した他人事を呟き、顎を突き出し、ひとり悦に入っていたが、「あれか、男爵の船?」と、急にパイプで碇泊している一行の巨船を指差した。
千鶴子は矢代の傍に椅子をかけると細い膝をよせ手袋を脱ぎながら、「お疲れにならない。」と低く小声で訊ねた。親しみの眼に見えて増して来た彼女の低声に、矢代も一言会葬の日の礼を云ったが、ふと、どうして自分があのヨーロッパを歩いていた間、この千鶴子と何事もなく過せたものだろうかと、我ながら俄にそんなことが理解しがたい頑なさに見えて来て、じろじろ驚きながら千鶴子の膝を見るのだった。それも、今ごろ突然そんな感じに襲われて来たということが、一層自分の憑かれていたものの激しさを今さらに感じられて、茫然とした思いでまた海を眺めた。
「ホテルはとってあるのかね。このまま東京へ帰るんじゃないだろう。」と遊部は由吉に訊ねた。
平尾男爵は子供づれだから分らないが、長い外遊のものに即日の帰宅は無理だから、今夜はニュー・グランドになるだろうという一同の意見だった。歩廊には刻刻出迎えの群衆が増して来た。中に田辺侯爵夫妻の顔も揃って顕れると、由吉たちの周囲は船を待つ間のもどかしさが無くなり、歩廊の欄干の傍に出揃って沖の方を向いたまま、一同につきものの機智諧謔が流れ始めた。
「東野さんと真紀子さん、どうして一緒に帰る気になったのか、あなたは御存知ですか。分ったようで僕には分らないんだが、手紙には何も書いてなかった。」と矢代は傍の千鶴子に訊ねた。
「それは書いてないの。ただね、お話することいろいろあるんだけど、今は書く勇気がないって。そして、自分の旅は悲劇だったって、書いてあるだけなの。」
階下から閃き出て来た黄いろな蝶が歩廊の柱の間を飛び廻っているのも、春の日射しを受けた海の色を鮮明に明るくした。帆を拡げかけた帆船が欄干の下を通って行く小ささを見降し、矢代は廊下の意外な高さに初めて気がつくのだった。
「しかし、悲劇にしても東野さんとは少し――取り合せが意外だったな。何かわけがあるんじゃないかな。」
「でも、帰るとなると、お連れをさがすもんじゃありません。」
「そういうことも考えられるが、あの真紀子さんという人は危いんだ。どうも危い。僕は一度オペラで懲りたことがある。」矢代には、平尾男爵と東野とがともに帰って来ることは想像出来ることだったが、真紀子が久慈と別れてひとり東野と同船だということが、やはり頷きがたいことの一つだった。勿論、久慈と真紀子の間が不和になったとの便りは、直接二人からの手紙によらずとも、千鶴子へ来るもので分っていた。しかし、その結果が東野と真紀子とともに帰る事情になったとは、そこに穏かでない空想が混って感じられた。およそ日本を出発の際持ち運んでいった道具や習慣はみな毀れ、人の性格まで一変させてしまう西洋の旅のことだったが、それにしても、表面放埒に見えつつ東野の底にいつも動かぬ慎しみだけは今も変ることはなかろうと思われても、それとてどのような変化があったか、これだけは人の想像の外だった。殊に真紀子の身の上は同情に値いすることが多かった。しかし、いずれにせよ、そういうことを一応空想の中に入れて考えても、外国にいるときの生活から推し測って、そのものの内地にいるときの生活は分り得られないことであった。またそれは彼女のみとは限らず、現に矢代は、あれほど親しかった久慈や東野の内地の生活もいまだに分らぬままに捨ててあった。それも一つは、まだ消え去らぬ西洋の幻覚の仕業とも解せられれば、個人に対する興味などおよそ物の数ではなくなっている、茫漠としたある観念に絶えず憑か
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