暗なばかりだった。そのうち彼は眼が醒めた。醒めてからもまだ暫くは静かなその父の姿が眼から離れなかった。
 それは父の一番穏かなときの美しい表情だったが、生前のときの顔ともまた違った品位の具った顔だった。


 雲行きの和かになった空に、辛夷の蕾が毛ばだった苞を裂いて揺れ始めた。空を白くぼッと染め春の支度に忙しそうな速さの風も、蕾のあたりは、一面匂い立つように霞んで過ぎた。先端を揃えたものの芽も一斉に揺れ騒いで、一日一日と空は明るく、降る雨もみずみずしい温みで肌を潤すようになった。
 矢代は東野が横浜へ着くという報せを千鶴子から受けたのは、このようなころであった。東野はどうしたものか真紀子と一緒で、またこの船には平尾男爵やその子たちも共に乗っているという、塩野からの葉書も届いた。
 船の着く日、矢代は正午から横浜まで出かけていった。この日は田辺侯爵邸で会った人たちもそれぞれ出かけていることと予想されたので、また賑やかな日となり帰りも遅くなることだろうと思ったが、船の出迎えは汽車とは違い、海風に吹かれる新鮮な魅力を覚えて朝から矢代は時の近づくのが待ち遠しかった。殊に父が亡くなってからまだ日も浅く、その間どこへも出かけず引籠りがちだったもの寂しさの、身に沈み入って来ているときだったので、一度海気にあたって、旅の日のうつろいに気持ちを転じるのも、元気を取り戻す法かとも思われた。父の四十九日が過ぎれば、長い期間休んでいた会社へも出てみるつもりであったが、このごろ知人から、ある大学の歴史の時間を受け持つことを奨められてもいた折のこととて、その方のことも応じてみる興味も起っていて、このままでは家にいがたい仕事への情熱も日に感じられる際だった。「遣唐使と日本に於ける近代精神の交渉」という評論の一部も、前に矢代は母校の教授に出してあり、幾らか好評を受けている話も聞かされていたから、なお励みも増して来ていたときの突然の父の死だった。この父の死は急速に矢代に生活のことを考えさせる原因となって、今も横浜まで行く電車の中でも、学校で歴史の時間を受け持ちながらする会社勤めについてまた彼は考えるのだった。彼の建築会社は叔父の会社だったから、休養中にも月給の給与はあり、他の社員との人事関係さえ考えて行動しておれば比較的勤めは苦痛なことではなく、むしろ、それが彼の自責となって成績を阻む病癌ともなりがちだった。
 横浜の埠頭へ着いたときは、塩野はもう臨海食堂の窓際のテーブルで食事をしながら、画家の佐佐と話をしていた。矢代は塩野を後から肩を打ち、会葬の礼をのべてから彼の傍へ腰を降ろした。
「ここはなかなか眺めは良いね。」
「良いだろう。だから僕は早く来たんだよ。船の着くのは二時だとさ。あの船がそうなんだが、伝染病が出たとかで、昨夜からあそこに碇泊したきりだ。」
 塩野の指差す沖を見ると、鉄壁のように並んだ幾つもの船舶の上から、一段高く白い頭を浮き上げた巨船が見えた。起重機や鉄板の間を幾百の鴎がしなやかに飛び流れていた。空が晴れているので波も蒼みを加え、照り返しの明るさに微笑が自然に泛んで来た。食堂は海中に突出した位置のため、船の食堂に出た航海の日の思い出を湧き立たせ、暫くの間も矢代は、もう忘れていた風景を限りなく思い出すのだった。
「ここなら二三時間待つのは愉しみだね。いろいろ君も、思い出すことがあるだろう。」
「もうたまらないんだよ。さきから。」
 画家の佐佐も無言だった。つづく波の拡がる末の方から、肌を洗うように襲って来る哀愁に矢代も暫く黙っていた。
「何んだろうね、この妙な寂しさみたいなものは。」
 見れば見るほど増して来る小舟の数を見詰めながら、矢代は云った。身動きして笑った佐佐の鋭い横顔に日が射し、鴎の描く白い速度に随って彼も視線を移していくばかりだった。鉛筆に似た、赤い灯台のある岬の先端を廻って入港して来る船、首の金具を鋭く耀かせて疾走する小蒸気、薄鼠色の船体を並べた外国船、浮標の間を巧みにあやつる櫓、荷上げ、荷卸しなど、窓の両側に映った船の景観は、矢代の通って来たどこの海路の港ともよく似ていた。
「皆さんはどなたも、もうお父さんがいらっしゃらないわけだなア。」
 と、矢代は、世放れのした海から父の死を感じ、ふと塩野と佐佐との身の上のことも思い出したりした。今目前の景色も、父のいたときに眺めたなら、あるいは感慨も今とは少し違うのではなかろうかと思ったからだった。
「そうだね、君もとうとう僕らの仲間入りしたわけだよ。」と塩野は云って笑った。
「どうも僕は、何んだか少し、勝手がいつもと違うように思えるんだが。」
 矢代はまたあたりの風景を眺めてみた。父のいるときには、自分の背後に父からの長い紐がついていて、そこから養分を吸い摂りつつ、それも知らずに迂濶に見
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