ごととは思えず、悲しさとはまた別に、自然に洩れ出たひと言の心からの礼でもあった。しかし、それは何んとなく悲鳴にも近い礼だった。

 夕食が済んでから会葬者たちは皆帰った。勝手元の方の手伝いなども後片付けを済ませて皆引き上げて行くと、家の中は初めてがらんとして、灯明の光りの似合う静な夜になった。矢代は疲れが一時に襲って来て身体を火鉢の傍で崩し、畳の目に視線を落とした。外国から帰った夜も、彼はここにこうして横になると、同じように畳の目を見詰め、身のあるか無きか分らぬような憂愁を感じたことを思い出したが、今もまたそれと似ている疲れだった。が、ふと彼は、自分の旅の総決算が、この突然な「父の死」というものになったのだと思った。父の自分に対する積りに積った心配が、喜びに変った刹那、忽ちこのような崩れとなって顕われた総決算だった。
 ――彼はそれをそう思いたくなくとも、否定出来がたいあるものが、否応なく彼にそんなに思わせて来るのだった。
「これでやっと、まア、すみました。」
 母は矢代の傍へ力なくよたよたした膝で出て来て呟いた。
「ほんとにあの川奈さん、よくやって下すったわ。」
 と幸子も母の後から出て来て云った。皆誰も疲れてしまって最後にほッと洩した言葉がそうだった。母は膝の上で丹念に会葬名簿を指で延ばしてから、それを額におし頂いた。
「あたしはこれから長生きをして、お父さんに見たもの皆報らせるんですよ。うんとあたしは、長生きしなくちゃ――」
 ぼそぼそと独り言のようにそう呟く母の顔は、このときもどういうものか愉しそうだった。頬はもの腰の弱りとは違い、まだ醒めぬ興奮で色艶もぼっと良かった。
「そうよ。それが一番いいわ。」と幸子も笑いながら母に云った。
 運命の描いた絶頂で戯れているような、母子二人の不思議なあきらめの良さに、これはもう、悲しみを越えた軽やかな美しさになっていると、矢代は今さら二人の顔をあらためて見るのだった。しかし、まだ彼自身はあきらめきれず、底冷えのした悲しさに手枕から頭も上らなかった。
 幸子は母と暫く会葬者たちの噂をしていてから、その途中で矢代の方を向いて訊ねた。
「兄さん告別式のとき玄関で一寸物を云った方があったでしょう。あの方どなた。若い女の方と一緒にいらした方よ。」
「あれはパリのときの友達だ。」
 矢代は今の塩野と千鶴子のことに関しては触れられたくはなかったので、一言答えただけで仰向きに長く伸びた。
「あの女の方は美しい方ね。でも、帯留が何んだか妙だったわ。」
「どんな方?」
 と母は訊ねた。
「ほら、兄さん、何んだか前へ動いて云ってた方があったじゃありませんか。モーニングだのにネクタイだけはぱッとハイカラな方よ。その方と御一緒の女のかた。」
 幸子は言外にも鋭い眼差で母を見詰めて云ったが、母は、ただ、「はア」と頼りなげな声を洩したのみだった。
「あの二人は火葬場まで行ってくれたんだよ。今度来たときはお礼を忘れないでくれないか。」
 仏前の蝋燭の明りが急に大きく揺れ出したので、芯を切りに立つついでに、矢代はそう云うと千鶴子の手紙のことも思い出し、自分の部屋へ入っていった。手紙の内容は別に取り立てたことではなく、侯爵邸の夜会で矢代と別れた後の模様が書いてある後で、今日は母が何んとなく自分に優しくしてくれるので嬉しくて、この手紙を書く気になったとだけあった。しかし、彼は「何んとなく今日は母が優しくしてくれるので」という簡単な文句が、温む水の霞んで来るような好い感じで読み終った。彼は記念のために、先夜読んだ藤原基経に関する史書の頁の部分へその手紙を挟んだ。
「寛平三年正月十三日、藤原基経歿す」
 とその頁には忌日もあった、新暦なら季節も丁度今ごろで父の忌日より十日先だと矢代は思い、なお基経のむすめの穏子の方の忌日も調べてみると、これも天暦八年、正月四日となっていた。
 これらの忌日の近さには別に意味があるわけでもなかったが、父の最後の夜に云った先祖の人物の名が、思いがけなくこの基経と同じだと思うと、ない意味もあるように矢代には思われてくるのだった。
 しかし、とにかくそうしている間も、彼は疲れでもう眼が閉じそうになったので、先日から敷き放しのままの寝床へ入った。そして、すぐ眠ると、また父の夢を起きていたときの続きのように見てばかりいた。死んでいる筈の父が、いつの間にか半身だけ起してあたりを見廻している夢だったが、寝かせても寝かせても、父の姿はいつの間にかまた半身を起していて、じっとどこか分らぬ方を眺めていた。
「お父さんどうしたんです。」
 と彼は夢の中で父に訊ねた。
 しかし、父はやはり何んの表情もない静かな顔のまま同じところを眺めつづけた。彼も父から手を放してその方を見てみたが、そこには何も見えずただあたりが真
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