それも一つは、男爵が自分の気に入った人だからだと矢代の思ったのはまだしも良いとして、いつの間にか彼は、もし千鶴子との結婚の場合に、父や母が不承知のときを想像し、そのときには久木男爵に頼み両親を説き伏せて貰う虫の好い考えさえ、幽かに頭に忍び入って来るのだった。それはその可能性があるとしても、頼み込むべき筋合のものではなかったが、千鶴子が気に入りの侯爵夫人に、自身の方の両親を説きすすめて貰う努力をしているのが瞭かな現在、こちらもそれに相応した説得者として、ひそかに久木男爵を選び考えたのは、特に男爵に面倒をかけることでもなく、ただ一筆両親へ手紙を書いて貰えれば良かったからである。それにしても、もしそんなことでもすれば、父は分を知らぬ子の行いに、ますます怒ることなど矢代には眼に見えた。
 下枝を移っていく鶯を眺めながら、彼は、この上久木男爵に会って親しくなれば、頭に泛んだことも頼み込みかねない自分を知り、やはり男爵とはもう再び会うまいと決心するのだった。
「お父さんが久木さんの会社にいたのは、幾つぐらいのときだったんですか。」
「そうね、ちょうどあなたほどの年だったかしら。あなたの生れたときは、久木さんの会社にお勤めだったから、早いもんだわ、もう三十年以上になるんだね。お正月になると、社長の久木さんが社員の前へ出て御挨拶なさるだけで、一年に一ぺんお顔が見られたもんだそうですよ。それにあなたの昨夕のお話本当なら、それはお父さん、愕きなさるわ。」
 六十に近い年にしてはまだ頬の皺もあまり見えず、切れ長の眼に、髪も濃い母の顔を矢代は眺め、母に較べて老いこんだ父の白髪を眼に泛べた。
「しかし、お父さんも年をとられたと、つくづくこのごろ思うな。外国へ僕が行く前には、ああではなかったんだが。」
「一緒にいると分らないけど、そうでしょうね。そうそう、先日もね、お父さんあなたのお嫁さんのことも心配してらっしゃるの。いつになったら耕一郎から云い出すか待ってみてるんだが、お前にはまだ何も云い出さないかって。あなたも決めるものなら、そろそろ決めて早くはありませんよ。」
 嫁の話は母からは云い出さず、妹の幸子から、やがて切り出されることとのみ思っていたときとて、そんなに母から云い出されると、彼も自然に顔の熱てりを覚えた。それも自分の結婚の相手が千鶴子だと分れば、誰より反対しそうなものも、気性の強いこの母にちがいなかったが、言外に意もあるらしい今の母の話し振りでは、千鶴子のことも朧げながら早や察しているかと頷かれる節があった。
「細君のことは、まア、もう暫く待って下さい。」
 矢代は言葉を濁し、気軽く菓子を摘まんだ。そして、昨日千鶴子と虎の門で見立てたソファがもう着きそうなころだと思って時計を見た。

 まだ畑へ出るには早すぎる寒さだった。矢代は鍬を持って外へ出てみた。畝も消えて平べったくなった畑には、夏から抜き忘れたままの黍が数本立ち枯れて残っていた。萎びた葉をべたりと地につけている大根と一緒に、それらを引き抜いた後から彼は畑に鍬を入れていった。
 一打ちごとに足もとからむっと土の匂いが掠めのぼって来ると、彼はブロウニュの森で千鶴子と二人で草の中に伏し、土の香を嗅ぎつつともに日本を偲んだ日の、ある午後のひとときを思い出したりした。そして、日本へ帰れば何より先ず畑を耕したいと思ったりしたことも、今ごろ漸く実行し始めた彼だったが、「身土不二」という昔からある言葉の深い意味も、こうして打つ鍬の重さ、土の匂い、汗の香の中から味われて来る思いがした。
 しかし、彼は土を掘り起しているうちにも、この土地は地主から借りていてまだ自分の物ではないのだと思った。自分の手で耕すことの出来る範囲の狭さでも良い、若干の土地を握ってみたい欲望を彼は強く感じて来ると、それも父から貰った金銭で買い需めたくはなく、自分で得た金銭で需めねば、身土不二の意の深さもその根さえ識りがたいと思えて残念だった。そう思うと、外国で使った金銭の額でなら、今打つこの畑の広さも手に入る見込みがつき、今さら彼は、一打ちごとに失った額の重さが身に感じられて来るのだった。
 霜柱のため砂を浮き上げぼそついた土の表面が、彼の後から鮮やかな黒さを蘇らせて進んでゆく。ほんのりと温い土の香だった。矢代はこの畑に撒く肥料も、自分の家族の体中から出た物のみに限ってみたいと思った。そして、そこから生えた野菜でまた一家の身体を養うことを考え、土と血との循環も考慮に入れたかった。それにしても、なお彼に残念なことが一つだけ、頭の底から絶えず脱けず彼を追って来た。それは航海の船中で起ったある日の小事件だったが、丁度船がコロンボを出たころの夕食の後である。船客たちが集ってなごやかな雑談から無遠慮な談に移って来たとき、ある商務官が、弁護士を
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