出すさえ煩わしげな思いの群り襲う沁みに聞えて深かった。
 矢代は男爵と二人でクションの上に揺れながらも、この夜の男爵とのことを帰ってから、主人思いの明治の気風をまだ失わぬ父に話せば、どんなに父が喜ぶことだろうと思った。矢代はその喜ぶ父の心情を想像すると、今こうしてここで男爵と自分の並んでいることが、すでに孝行をしていることになっているのだと気がついて、思わぬ明るい気持ちの差し込むのを覚え久しぶり若若しい青年に立ち還って来るのだった。そして彼は父のその喜びの移り映じて来た自分の今の興奮の仕方を、これを僅かに自分から見つけた価値のように思われ、横の男爵にはそれも早や無い富貴の寂しさばかりが攻めよっているのかもしれぬと、男爵の日日の生活をあれこれと想像して、反対にますます自分の幸福を的確に感じとった。


 日曜で空の上の方には風があるらしかったが、庭の樹樹は静かだった。下枝の間を影のように鶯が移り渡っていた。植えてから五六年は実の成らなかった黐《もち》の樹に、赤い小粒の実が成り始めた年から、よく小禽類の来るようになったのも、今年はそれが目立って増えた。まだ笹鳴きの若い鶯ながらも、真近く見る姿は絶えず鋭く伸びたり膨れたりした。矢代は、午後からは長く忘れていた畑を打ってみようと思いながら、火鉢に片手を焙り、鉄瓶の鳴るのを聞いていると、ふとある貴重なものの過ぎ通っている静かさを覚えた。冬の日の障子の明るく冴えたその向うで、「ちッちッ」と鳴く鶯の声も、流れ移っていった旅の日の、空を仰いだときどきに感じた郷愁に見えたりした。
 暫くすると足音がして、母が矢代の部屋へお茶と菓子を持って這入って来た。午後ならばともかく午前中、厳格な母は矢代にこうしたことは、今までにあまりなかった。
「今日は良いお天気ですね。ひとつ今日は畑を打とうかと思ってるんですよ。」と矢代は母に云った。
「畑を? お珍しいことね。そんな手で出来ますか。」と母は笑った。
 窓の外を見上げ差し向いに坐っている二人の傍で、鉄瓶は湯気を上げて鳴り、なお鶯は枝から枝へ飛びわたって、今までひそかに矢代の待ち望んでいた梅の枝まで来た。
「昨夕のこと、お父さんにお話したの。そしたら、お父さんお喜びになってね。もうそれは、ほくほくしてらっしゃるの。」
 母もいつもとは違い子供のような言葉でそう云うのを、矢代はああ、あのことかと思った。あのことは昨夜帰ってから久木男爵と会った始終のことを、父には云わず母に矢代が話したのを、母はそのまま父に話したらしい。今から思うとそれは些細なことだったが、父にはやはり些細なことに響く筈もなく、家の空気が俄に大きく膨らみのぼった吉兆のように感じたにちがいない。それに妹の幸子も、いよいよ退院するという通知のあった二日後だった。
「久木さんは面白い人ですよ。世間の人の考えているより、僕はむしろも少し豪い人のように思いましたね。分りにくいのですよ。あの人の豪さは。」
 矢代はこう云っても、自分が男爵から享けた親切さを素として、好感を抱いた結果出た言葉だとは思えなかった。男爵の洒脱さの中には深さもあり、あの地位では持ちがたい謙虚さと、真面目さと、情熱とが細かく渦を巻いていたと思った。殊に何より矢代の心を明るくさせたのは、黙ろうとする自分をよく饒舌らせてくれたことだった。
「しかし、僕は困りましたよ。お父さんがむかし、久木さんの会社のお世話になったこと、どうしても云えなくってね。」
「あなた失礼なことしたんじゃないんでしょうね。お父さんそれを一番心配してらっしゃるの。」
「したかもしれないなア。」と矢代は云って笑った。
「お父さんは、耕一郎はときどき生意気なことを云うから、あ奴、また馬鹿なことを云いよったのじゃないかなアって、そうお云いよ。」
「しかし、あの男爵は、僕にぼろを出させて後悔をさせない人ですよ。そういう人はあまりいないですからね。それや僕だって、少しはいい気持ちになりますよ。」
「そんなことはあたしに云わずに、お父さんに云ってごらんなさいよ。」母は子の方へ一寸無意識に菓子を手でよせ、嬉しそうだった。
「おやじには駄目だ。僕が男爵と物を云ったことが、すでにもう無礼なことをしたと、思う人ですからね。僕がお礼を云い忘れたことなど話しちゃいけませんよ。ひどいお目玉だ。」
「それやいけませんね。そんなことなどしれちゃお父さん――」母は湯呑を上げ暫く子の顔を見守ったまま、どうしたことかふと黙った。
「この次お礼を云ったんじゃ、手遅れだし。どうしたのか昨夕は――まア、云わない方が、その場の礼儀にかなっているような気がしたものだから。」
 後悔というのでもなく、自分の失礼と感じたのでもない、しかし、黙っていたことが、今となっては気辛い味となって尾を曳いていることは確かだった。
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