が開いて近づいて来た靴音がぴたりと停った。矢代は煙草に火を点けたがマッチは幾本擦っても潮湿りの風に吹き消された。彼はマッチを取りにサロンへ戻ろうとして後ろを向くと、そこに食堂へ這入る前らしい千鶴子が花模様のイブニングで一人立っていた。
「あのう、失礼ですが、パリのほうへいらっしゃるんでございますか。」
と千鶴子は寒さで幾分青ざめた顔を真直ぐに矢代に向けて訊ねた。
「そうです。」
「じゃ、もう明日お別れですわね。皆さん、そわそわしてらっしゃいましてよ。」
「そうでしょうな。」
矢代は火の点かぬ煙草を口に咥えて笑った。
「あたしも皆さんと御一緒に、マルセーユで降りたいんですけれども、やはり、このままロンドンまで行くことに決めましたの、あら、まアあんなにお日さま大きくなりましたわ。」
と、突然千鶴子は嬉しそうに云って夕日を受けた靨のままコルシカ島の上を指差した。
「左のこのサルジニアでガリバルジイが生れたというんですが、ナポレオンと向き合っているところは面白いですね。」
「何となくそんな人の出そうな気がしますのね。」
船は首を上げたり下げたりしつつ夕日に向って苦しげに進んでいった。見ていてもその様子は気息奄奄という感じで、思わずこちらの肩にも力が入った。ぱッと甲板に打ち上った波は背光を受けたコルシカの岩より高く裂け散って、人家も見えず、左方に長く連った峨峨とした灰藍色のサルジニアが見る間に夕日の色とともに変っていった。
「ここは静かなところだと思っていましたけど、地中海が一番荒れますのね。」
と千鶴子は額に手を翳し、飛び散る泡にも滅《め》げず云った。
「そうですね。しかし、まア、幸いにこれほどで何よりでしたよ。ナポリへ船の寄らないのが残念ですが。――」
吹きつける風が千鶴子のドレスをぴたりと身体につけたままはたはたと裾を前方に靡《なび》かせる。
「コロンボまで来たとき、一番日本へ帰りたいと思いましたが、ここまで来ると、もうただわくわくするだけで、何んだかちっとも分らなくなりましたわ。」
矢代は軽く頷いた。彼は今の自分を考えると何となく、戦場に出て行く兵士の気持ちに似ているように思った。長い間日本がさまざまなことを学んだヨーロッパである。そして同時に日本がその感謝に絶えず自分を捧げて来たヨーロッパであった。
地中海へ這入って以来、憧れの底から無性に襲うこのようないら立たしさは、船が進めば進むほど矢代の胸中に起って来たのも、やはり来て見なければ分らぬことの一つだと矢代には思われた。全くこっそりと起る人知れぬこんな心は、悪用すれば際限のないものにちがいない。先ず静かに寝かしつけておこうと思っても、何ものか寝てる子供を揺り醒ますものが絶えず波の中から霊魂のようにさ迷うて来るのだった。間もなく、夕食の合図のオルゴールが船室の方から鳴って来ると、矢代はタキシイドを着替えに自分の部屋へ這入っていった。
船の中の食堂は最後の晩餐だというので常にも増した装飾であった。船客たちもこの夜はタキシイドに姿を変えずらりと卓に並んでいた。女は女同士のテーブルに並ぶ習慣もいつのころからか破れたのも、この夜だけは千鶴子と真紀子が神妙に前の習慣に戻って面白そうに話すのが、矢代の方から眺められた。食事がだんだん進んでいって空腹が満たされて来たころ、突然一隅から紙爆弾の音がした。一同はッとしたと思うと同時にあちこちのテーブルからも爆発し始めた。外人を狙ってテープを投げつける。外人たちから返って来る。婦人を狙って投げつける。それぞれに紙の帽子を冠り、わあわあ騒ぎ立って来るに随って、咲き連っている造花の桜の枝枝にテープが滝のように垂れ下る。
船客たちは今宵が最後の船だと思うばかりではない。地中海へ這入ってからは七色の虹に包まれたような幻に憑かれているうえに、ここまで来れば後へは帰れぬ背水の思いである。酒一滴も出ないのに頭は酔いの廻った酔漢のようになっている。明日はいよいよ敵陣へ乗り込むのである。日本の国土といってはこの船だけである。
このように思う気持ちは各人に共通であるから、桜も今は当分の見納めと、うす濁った造花の桜の花曇りも上野の花のように見えて来る。すると、食堂での騒ぎは間もなく甲板の上へ崩れて行ってそこで踊りとなって来た。
二等の甲板の方からも踊りの出来るものはやって来て一緒に踊った。真紀子はフランス人と初めは踊り、次ぎにはいつものパーティでよく顔を会す踊りの巧い、美貌の中国人の高有明という青年と踊った。久慈は千鶴子と組んだ。彼は快活な性質であったから外人たちより踊りが自由で上手かった。
矢代は踊っている久慈の姿を見ていると、パリへ行ってもこの人と友人になっていれば、定めし日日が愉快に過せるであろうと思うのだった。ところがそのとき急に踊り
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