からかった。
「いや、あのときは夢を見ているようなものさ。何をしたのかもう忘れたよ。マルセーユへ上った途端に眼が醒めたみたいで、どうしても自分があんなに千鶴子さんの後ばかり追い廻したのか分らないんだ。いまだにあのときのことを思うと不思議な気がするね。」
「とにかく、あのマラッカ海峡というのは地上の魔宮だよ。あそこの味だけは阿片みたいで、思い出しても頭がぼっとして来るね。あんな所に文化なんかあっちゃ溜らないぜ。あ奴が一番われわれには恐ろしい。」
 アンバリイドからケエドルセイにかかって来ると、河岸の欄壁に添って古本屋がつづいて来た。一間ほどのうす緑の箱が蓋を屋根のように開いている中に、ぎっしり本や絵を詰めた露店であるが、上からは樹の芽が垂れ下り魚釣る人の姿も真下のセーヌ河の水際に蹲《しゃが》んでいる。矢代は前方の島の中から霞んで来たノートル・ダムの尖塔を望みながら云った。
「僕はカイロの回回教《フイフイきょう》のお寺も忘れられないね。あれはここのヨーロッパに自然科学を吹き込んだサラセン文化の頂上のものだが、ナポレオンがあの寺を見て、癪に触って、大砲をぶつ放したのもよく分るね。ナポレオンが日本へ来ていたら、第一番に本願寺へ大砲をぶち込んでいたぜ。」
 そう云えば矢代はエジプトのカイロのことを思い出す。あのピラミッドの真暗な穴の中を優しく千鶴子を助けて登った久慈の姿を思い出す。

 エジプトまでは矢代と久慈はまだ親しい仲だとは云えなかった。それと云うのは、同船の客が港港の上陸の際にもサロンでの交遊にも、二派に別れてそれぞれ行動を共にしていたからであった。これらの二組の中には若い婦人も混っていた。久慈の方にはロンドンの兄の所へ行くという千鶴子がいた。今一方の組の中には、ウィーンの良人の傍へ行くという、早坂真紀子が中心になっていた。矢代は上海に半ヵ月ばかり滞在してから、スマトラその他の南洋の港港を一ヵ月ほど廻り、シンガポールから初めて久慈たちの船に乗船したため、これらの二組のどちらでもなく中立派の態度をとって自由にしていたが、一度び船がスエズに入港してカイロ行の団体を募集したときから、この二派の関係は乱れて来た。
 船がスエズからポートサイドまで出る一昼夜の間に、カイロ行の団体は陸路沙漠を横切りカイロへ出て、ピラミッドを見物してからポートサイドに廻っている船まで、汽車で追っつかねばならぬのである。随ってこの急がしい旅には二派の反目など誰も考えていられる閑はなかった。いよいよカイロ行の一団は、千鶴子の組も真紀子の組も呉越同舟で三台の自動車に分乗した。
 そのとき矢代は最後に遅れて自動車に乗ろうとするとどの自動車にも席がなかった。矢代はうろうろしながら席を覗いているうちに一台の自動車から急に久慈が飛び降り、「こちらへいらっしゃい。ここが空いていますから。」と矢代にすすめた。
 久慈は矢代を自分の席へ入れると自分が運転手台に廻ろうとした。
「いやいや、それはいけませんよ。」
 こう矢代は云ったがそのときはもう久慈は運転手の横に乗っていた。矢代がそのまま久慈の席へ納ると同時に自動車は辷り出した。車内では矢代の横に真紀子がいて、その横にある船会社の重役の沖がいた。沖と矢代は船中から親しかったが、この四人が一緒になることはそれまでにはなかったことであった。矢代はこのときから久慈や真紀子とも親しさが増して来たのである。
 ポートサイドから船が地中海へ進んで行くと、船客たちはすでに上陸の準備をそろそろし始めたが、矢代はまだそれまで千鶴子とは言葉を云ったことが一度もなかった。
 ある夜、イタリアへ船がかかり渦巻の多いシシリイ島を越えた次の夜であった。一団の船客たちは突然左舷の欄干へ馳け集った。矢代も人人と一緒に甲板へ出て沖の方を見ると、真暗な沖の波の上でストロンボリの噴火が三角の島の頂上から、山の斜面へ熔岩の火の塊りをずるずる辷り流しているところだった。
「まア、綺麗ですこと。」
 と千鶴子が感嘆の声を放った。彼女としては傍にいるものが矢代だと気附かずに云ったのだが、しかし、矢代も思わず、
「綺麗ですね。」
 と口に出した。千鶴子は傍のものが矢代だと識ると、どういうものかっと身を退けて甲板からサロンの中へ這入ってしまった。慎しみ深い大きな眼の底にどこか不似合な大胆さも潜めていて、上唇の小さな黒子《ほくろ》が片頬の靨《えくぼ》とよく調和をとって動くのが心に残る表情だった。

 次の日、地中海は荒れて船の動揺が激しくなった。矢代は夕日の落ちかかろうとするコルシカ島の断崖を眺めながら、甲板の上に立っていた。ときどき波が甲板に打ち上った。あたりは人一人も見えず冷たい風が波の飛沫とともに矢代の顔に吹きかかった。彼は欄干に肘をついたまま立ちつづけていると、後ろのドア
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