た場合に起る母の足踏みを思うとき、
「さて、困ったね。」
 と思わず火鉢の上へ胸をのり傾けて呟いたが、それもさほど弱ったことでもなく、そんなに呟いてみただけのようなものである。
 雪に包まれた中で舌にのせる汁粉は美味だった。満目の白さが甘い液汁を包んだ塊のように見えて、日に解けとろりと崩れた部分の湿り工合まで、味わい深かった。
 駅からの帰りは橇にせず彼は歩いていった。靴の下で根雪の鳴るのもこの朝のは踏み応えのある音だった。辷らぬように彼は両手を大きく拡げ、鰐足になって、ゆっくり歩くうち妙におおらかな気持ちを覚え、枯松葉を焚く匂いがどこからか掠みとおって来ると、それがまた奥山の匂いとなり一層胸が緊った。
 街端れをすぎて影の消えた所へさしかかってからは、邪魔物もなく降り注ぐ光りでますます矢代は幸福を感じた。それは千鶴子とはも早や何んの関係もない、自然の法悦のようなものだった。
 谷を見降ろし山を見上げる眼に、波うつ雪の白さがうす紫に霞んで見え、足もとのあたりからぼっと金色の光彩の打ちあがって来る中に、自分の影だけ長く後に倒れかかっていた。足に気をつけて歩いているためか、間もなく脇下から汗が流れて来た。彼は休んで空を見上げると、実にふかぶかとして澄んだ空だった。またそのあたりが千鶴子を橇に乗せて来たとき、風の荒れ狂った場所でもあった。あの風に乗って狂いはためく羽音を立てて橇を襲った、例の夢中の千鶴子の飛び廻ったところもこのあたりだ。それに今は、澄み返った空にくらげの浮き漂うような安らかさで、また何ものか透明な流れるものの姿を感じ、矢代は、その諦めたようなひっそりした静けさにふと悲しみを覚えた。
 彼はあの夢の千鶴子が忘れられずいとおしかった。もし千鶴子と結婚が定まれば、もうあの夢とも最後かもしれぬ。そう思うと、見上げる空の色がいつもより遠ざかって深かった。
「いや、あれだけは幻影とは思えない。たしかにあれは本当だ。それだから別れがこんなに寂しいのだ。」
 矢代はそうひとりぼそぼそと呟きながら、光りに射し返った金色の波の上を鰐足でまた渡っていった。


 小屋へ帰ってから、矢代は千鶴子の手紙の封を切った。手紙には、彼の予想したこととはそんなに違わぬことが多かったが、その中に、彼女の母の奨める青年が早く返事をくれとしきりに迫って来ていることと、今一人別の青年と二方から押して来ている縁談に挟まれ、日夜苦しくなっている立場のことなど、精しく矢代に談そうと思って果せなかった残念さなど書いてあった。そして、終りの方に、
「でも、今夜はあたくし愉しゅうございましたわ。これで帰りましても、暫くは元気でいられることと思いますの。あなたのお気持ちお変りにならないこと存じました上は、どんな我慢もする決心でおります。ただ母のことだけは、あたくしの決心が固まれば固まるほど、暫くは母も意を和げてくれなさそうに思われますので、さぞあなたに御不快をお与えすることと存じまして、それだけは心配でございます。外国へまいりましたときは、帰れば母との約束のまま、母の奨める人とと、そんなに軽軽しく考えておりましたのに、こんなに自分も変ってしまいましたのは、どういう神さまのお気持ちでございましょうか。私の喜びも早すぎることだと思わせるようなことなどもう二度となさらないでいただきたいと念じます。」
 千鶴子の文面に表われた歎きや歓びは、まともに矢代にも響いて来てひと息に読み終えた。しかし、最後に約束のカソリックの誓詞が出て来たとき、急に矢代は胸を突き跳ねられたように感じて読み下すのが恐ろしくなって来た。やはり、こういうことは訊くものでもなく、読むものでもなかったと彼は初めて後悔した。
「ああ天地《あめつち》のもと、われら敬愛の心もて、御身の御座所《みくら》の前にかく平れ伏し、讃美の誠を捧げまつる。われら身をきよめ御身を敬いまつることを人に弘め、歓びに心とどろき、僕《しもべ》たる身を貴しと思い、御身を讃めたたえまつりて、その大いさを説き示し、み保護のもと歓び行いて、御宿りのいかばかり美しきかを人に教えまつらんことを希う。かくわれらあらん限り、御身のみ心をおのれとし、み栄を高くかかげて、異端者の悪しき思いやあまたの人の心なき業、また、そそっかしき心もて受けさせ給う侮辱《あなどり》をも、そそぎまつらんことを希う。」
 ここまで読んで来たとき、矢代はもう普段の気持ちではおれなかった。その中の非人間的な浄らかな呼び声の流れる中の、特に、異端者の悪しき思いをそそぎまつらんことを希うというところまで来ると、自分を突き伏せて来るように感じ思わず矢代も身構えた。今まで文面から受けた歓びも素直な歓びとはならず、むしろそこから歪みを帯びただけではなかった。固く重い鉄筋がずしりと落ち込んで来たような
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