。」
矢代はもう半ば冗談のつもりで云って笑った。すると槙三は急にぴたりと微笑をとめて黙ってしまった。
「外国にも逆まんじがありますが、あの形は日本の言霊の原型図と似ていますよ。あれは日本では生命力というものの拡がりを幾何学化したものだということを、外国人は知っているのか知らぬのか、そこはまだ僕には分りませんが、恐らくは何かもっと違った理由があることでしょう。」
槙三はこのときだけ「うむ」と低くひとり頷いた。しかし自分の護っている学問の世界だけは微動もさせまいとする薄笑いが、再び彼の唇から洩れて来た。
次の朝矢代は小屋から温泉へ行った。千鶴子の部屋を覗いて見ると、槙三だけがまだよく眠っていたので起さず、彼は湯へ引き返した。濃霧がいつもの朝のように浴場に立ち籠めていて、昨日雪の中へマスクを捺しつけていた三人の婦人の声だけ、特別喧しく耳に聞えた。
矢代は湯の中に千鶴子のいることを感じていた。昨日の朝はどういうものか浴場で顔を合したくはなかったのに、今朝は間もなく別れて千鶴子が帰るためもあって、その前に二人きりで話したく思い、絶えず彼は霧の底からあたりを見廻した。槙三から離れてただ二人きりになるためには、実際この朝の浴場のひとときより矢代には時間がなかった。それも昨夕計らず千鶴子から云い出した婚約のこともあるのに、まだこんな場所を撰ばねばならぬ二人だと思うと、矢代は外国の旅というものの、二人が会うためにはいかに広く特殊な世界だったかを思い、今さらに驚き振りかえってみるのだった。
彼は浴場を一廻りしてみてから、隅の方で身体を流している婦人らしい人影の傍へ近よってみたが、身体の輪郭だけ朧ろに曇って見えるだけで、やはり誰が誰だかよく分らなかった。そのうち寒けを感じて来たのでまた湯に入ろうとしかけたとき、
「あら。」
と千鶴子が不意に水面から顔を上げた。
「やあ、お早う。」矢代は全身鏡を受けたように感じて云った。
「いついらしたの。」
「今さきです。」
二人は湯に浸ったまま朝日の射し込んで来る窓を見上げて暫く黙った。体で膨れた豊かな湯の連りに、乳色に染った眼界が雲間の朝の浴みかと見えた。少し離れた位置をとると、もう顔も見別けのつかないほど霧が舞い込み、ぶつかる湯の波紋が二人の顎の間できらきら光った。
「あれからよく眠れましたか。」と矢代は訊ねた。
「あれからお手紙書いたの。後でお渡ししますわ。」
「それはどうも――」
「なるだけあなたも早くお帰りになってね。」
浴槽の縁へ溢れる湯の波が、朝の眼醒めのようにぴちゃぴちゃ元気よく鳴りつづけた。窓の上の長い氷柱の垂れ間に聳えた雪の山山を眺めていると、矢代は二人の結婚の前に邪魔している多くの事柄も、もう考えるのはいやだった。湯の温まりが全身に廻って来たとき、彼は窓の傍へ行って身体を冷やした。そのあたりだけは霧が届かず、見るまにガラスが体の温気を吸いとって曇っていった。どの樹も雪にしな垂れた峡間の冷たさが膝もとから刺し上って来た。
「東京へ着くのは幾時ごろです。」
矢代はうっすらとぼけ霞んで見える千鶴子の方を向いて訊ねた。
「三時過ぎになりますかしら。」
日の光りが霧を切り、縞になって湯の一角へ透っていた。その光りの筒を仰ぎながら体を捻じて、千鶴子は湯を肩からかけ流す昔を立てていた。乾いた蛇口の雫を待ちかねた水仙の花が、湯気に煙った千鶴子の肌の後から見えるのも、別れの前の矢代には忘れがたい一瞬の光りのようなものだった。
東京へ帰る千鶴子らの汽車を送り出してから、矢代はひとり駅前の広場に立っていた。踏みつけられた固い雪に朝の日が射しているので、足もとの寒さにも拘らず肩は温かった。彼はすぐ山小屋へ引き返す気も起らず、何んとなく愉しいままに駅前の汁粉屋へ這入って火鉢に手を焙った。狭い家の中は日光に照り輝いた前後いちめんの雪で明るかった。彼は千鶴子のいるときよりも、むしろ今のひとりの方が延びやかに感じられ、汁粉を待つ間が、思いがけない幸福な時間になるのだった。
千鶴子の渡していった手紙が、ときどき外套のポケットの中で重く手に触れたが、彼はその手紙のために紊される今の愉しみの方が惜しまれ開封しなかった。今としては、ただ双方に結婚の意志が失われずあると分っているだけでも、彼は充分に恵まれたこととしなければならず、その他のことではたとい不満なことが多かろうとも、結婚を急ぐことさえしなければやがて消えるべき不満だった。
雪の中に蜜柑の皮の落ちているのを眺めながら、矢代は自分の母へ千鶴子のことを打ち明けることも考えた。しかし、それも彼女の母の気持ちの定らぬ限りまだ云い出すときでもなかった。もしそれを云い出したときの渋る自分の母の顔も想像出来た。殊に両家の財産や宗教や、血統などの違いを知っ
前へ
次へ
全293ページ中192ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング