からあまり離れていなかった。二十畳敷ほどの両側に寝台が四つ、窓際にベンチ代りのが二つと、都合六台あって、椅子、テーブルを中に炉代りのストーブもあり、内側の丸木はすべて白ペンキ塗りのため室内は明るかった。自炊用の道具箱も戸棚の中に揃っていた。やがてスキー客の出揃うころになると、この小屋も満員になりそうなので、矢代の勉強もするなら雪の浅い今のうちだった。
ここは特に朝の景色が美しかった。山際の雪に接した空の色の鮮かさは、醒めたばかりの眼を射抜き、貼りつけられたように暫く視線がそこから動かなかった。そこへさし昇って来る朝日に照り耀いた雪を冠ったまま、朧に静まる薄紫の枝枝の繊細さ、――矢代は顔を洗ってから一寸雪片を口に含んで菜を截り、火をストーブに焚きつけてそこで湯を沸かすのである。自炊はさして面倒なものではなくむしろ楽しかったが、後の洗い物が苦手だったから、これは附近の老婆に御飯と一緒に頼むことにした。
二三日は矢代は小屋からあまり外へ出ず書物ばかり読みつづけた。宿から初め小屋に移って来たときに感じた辛さは、宿で女中に見張られた気苦労よりも暮し良く、この生活は自分の理想の一つだと思えたほど退屈もしなかった。ただこの生活にもし書物がなかったら、恐らくこうして二日とはいられぬだろうと思うと、窓の外いちめんの白さが、ふと恐るべき退屈の塊りのように見えた。シベリヤを通ったとき矢代と同室の南が、十年前に一度雪のそこを通った景色も忘れたことを話し、
「あのときは雪が降りてたから、外なんか見なかった。いや、しかし、今度は驚きましたね。」
と、シベリヤの広さに驚歎したのを矢代は思い、十日余りも続くあの地の真白な世界を想像してみて、その途方もなく巨大な白い塊の中に生活して来たロシア人の表情も、所詮は、我れ識らずに退屈と戦って来た長い苦しさかも知れぬと思ったりした。退屈しのぎにせっせと人殺しをすることを書いた帝政ロシアの小説を、矢代はいつか読んだこともあった。それも雪のせいだったようにも記憶しておれば、また、昨日までの親友が明日自分のその友達を殺して平然としていることがよくあるのも、それも、突如として大平原に襲って来る気候の激変のためだと、モスコーを通ったときそこにいた日本人から聞かされて、なるほどここなら、それも別に不思議はないと頷いたこともあった。およそわが国のみならず、どの国の自然、風土からこの国を考えても、誤差の甚だしく生じるロシアだと彼は思ったが、ひところこの国に栄えた思想を範とせよと各国の知識階級に呼びかけた者の勢い旺んだった年のあったことも、すべては当時栄えた唯物史観という、ある種の科学説の力だった。
「いったい、ギリシアは何ぜ滅んだのだろう。」
と、こういうときには矢代はいつも思うのが癖だった。今も彼が雪の山小屋へ勉強に出て来たのも、科学を世界に伝え残したこのギリシアの滅んだ理由を調べたかったからである。そして、矢代の先祖の城を滅ぼしたのも、つまりはすでに滅んでいるこのギリシアの残した科学のためであり、それもカソリックという宗教の仮面を冠って不意に襲って来た科学であったのに、今もなお彼までそれを調べねばならぬとは、身を省みて怪しまれることだった。
「とにかく、あれはおかしな代物だ。」
と矢代は、こんなときには薄笑いを洩してギリシアの文明について考えるのだった。
また彼のその薄笑いは彼ひとりのみならず、東洋共通の表情にも通じたもののようでもあり、恐らくそれも東洋だけの愁いでもなく科学の仮面とされて遠く波路を渡り、東洋に押し出されて来たカソリック自身の歎きにもちがいないことだった。
こんな意味から選んで持ち込んで来た矢代の書物の類も、宗教は宗教のことの歴史だけより書いてなく、科学は科学だけの歴史より書いてなかった。今の矢代にとって目下何より知っておきたいことは、この二つの歴史の争いもつれたその接点の歴史だった。
矢代は朝起きると朝食の前に小屋を出、宿まで行って浴槽に浸った。朝の空に突出した高い浴槽は、他には見られぬ稀な場景を泛べ、ここの温泉は毎朝の彼の一つの愉しみだった。
さし渡し三間もある白いタイルの円形の中に、透明な湯が漲り溢れていて、部屋から入りこんで来る客も朝は賑わった。浴槽内の温度が外気を遮る大きなガラスの壁面の冷たさに触れ、物凄い濃霧の湯気となって場内に巻き返るので、肌の触れ合うほど間近に顔を並べている隣りの客の顔さえ朧だった。その他の客の姿など少しも見えず、ただ男女の声だけ聞える茫茫とした霧の中に、朝日に映えた薄紅色の山の雪の明るさが射し透った。
矢代はいつも山に向いた位置を撰び背をタイルの縁に寄せ、舞い立つ霧の底でがぼがぼ鳴る湯の音を聞いた。広い山の湯の男女の混浴は隔離した湯よりも、むしろ清浄な山川の
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