塩野と似ていてやはり原因が分らず、ただ高熱と眠けに襲われつづけただけで、無事恢復したということや睡眠中に矢代の名を口走ったこともあったらしく、後で兄の由吉から揶揄われて困ったことなど書いてあった。
 矢代はそれで先ずひと安心だった。そして、すぐ自分の調べ物もかね、知人の小屋のある上越の山へひとり出かけた。彼の知りたかったのは、一番彼の不案内な宗教と科学の歴史に関する方のことだったので、荷物はその準備の書物で重くなった。
 山にはもう雪が深かった。駅に着いたのは夜で風が谷の底で鳴っていた。宿まで行くのに橇に乗らねばならず、前後に一人ずつ従いた狭い橇箱の中で、幌の破れ目から吹き込む風にときどき矢代は顔を背けた。崖から雪崩れ落ちる雪の音の聞える路が長く、揺れ動く敷板の固さに腰骨が痛んだ。途中で馬橇に出会うと、路を除けあうのにこれがまた時間がかかった。矢代は押しつけて来る山の高い雪層を仰ぎ、調べ物に来るには少し物好きすぎたかと思った。それも滞在中は小屋で自炊するつもりだったので、洋灯に照し出された馬橇の足を食い込んでいる雪の深さに不安も感じた。
 もともと一度前に、矢代はここへ来て友人と自炊をした楽しい経験があってのことで、初めてではなかったが、そのときは五月で、冬の山の自炊はこの度びが初めだった。山小屋の附近に温泉もあり、そこの宿も馴染みの家だったから、困れば宿に泊りつづけても良かったのだが、帰ってから日ごとに都会がいやになって来るばかりのこのごろの矢代は、一つは馴れぬ冬の山の自炊生活もしてみたくて出て来たのである。それもチロルの山小屋を思いきれない苦肉の策も手伝っているとはいえ、今はそれもやむを得ないことだった。
 その夜彼は宿へ泊った。数年前にいた番頭がまた戻っていて矢代には都合が良かった。前に来たときより建増して倍ほども大きくなっている宿の中では、階下にあった浴槽が二階の中央に変っていて、高く突出した展望のよく利く広広とした位置を取り、どことなく外国のテラスに似た明るい美しさが好ましかった。
「ここの浴場は見事だなア。こんなに家全体で浴場を持ち上げているような風呂場は、僕は見初めだ。」
 と矢代は番頭に褒めて云った。
「そうですが。皆さん風呂場だけは、まア褒めて下さいます。」
 塩辛声の番頭を前にして、矢代は、ハンガリアのダニュウブ河の岸にあった温泉を思い出し、そこがここに一番似ていたと思った。彼は番頭に山小屋での自炊用の薪や、調味料などの世話を頼み、暫くの浴場もこの宿のを借りることにして、明日からの小屋の生活を楽しみにした。
 矢代は寝る前に音信を忘れていた知人たちへ手紙を書いた。彼は外国へ行ったことの利益のうち、省みて生活に直接役立ったと思うことは、何より自分が無慾になったことだと思っていたので、千鶴子へ出す手紙の中にも忘れずそのことを書き加えた。また結婚のことも考えると、まだ一度も自分が千鶴子にそんな意志を表示したことのないのに気が付き、千鶴子の待ち受けているのは或いはそれかもしれないと思ったが、しかし、特に結婚の申し込みをしなければならぬほど疎遠な間柄でもないと思い、やはり筆にまですることは差しひかえるのだった。自分に自信があるからだと云えばそのようなものだった。そう云えば千鶴子にしても、たしかに自信があるにちがいない素振りであった。たとい向うの母親に異議があり、自分の方の母親にも同様なことが起るとしてみても、それなら、双方の異議の消え去るまで待つだけの準備は、またどちらにも出来ている筈だった。ただ彼は、今さらそれを云い出して事を荒立てる気持ちがなかっただけで、他から云われずとも、自分の方は自分で互に邪魔ものとなる事がらを秘かに処理してみてこそ、それが二人の場合に限った一番自然な愛情のように思われた。もしそれも出来なければ、出来ないような何事かがまだ二人の間にあるのにちがいない。――とにかく、矢代は結婚という言葉を今は強硬に手紙の中で使いたくはないのだった。一つはそれも、千鶴子と自分の間に西洋の幻影が燃え尽きず、まだ焔を上げているのが感じられたからでもある。
「どういうものですか、僕はこのごろ、無茶苦茶に勉強がしたくなって来ています。かつて今まで、これほど勉強をしたいと思ったことはまだありません。あなたのこともよく頭に泛んで来て困りますが、実際、これは困るほどです。なるだけその方のことは倹約することにして、荒行を山でやりたく出て来ました。非常な決心で明日から山小屋の雪の中で、自炊もするのです。我ながら勇ましい覚悟に愕いておりますが、チロルのときのように邪魔しないで下さい。あのときのことを思うだけでも、今の僕にはあなたが少からず邪魔になるのです。」
 こう矢代は千鶴子に書いて、嘘はどこにもないと思った。


 山小屋は宿
前へ 次へ
全293ページ中178ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング