なことを云いたくなり、つい科学の悪口を云ってしまった。敏感な塩野は「うむ」と云うと、耳を動かす馬のようにぴりっと眼鏡を光らせた。そして、病中眠っている間は夢ばかり見ていたので、何んの事だかいまだに分らないと話した。矢代は千鶴子の容態をもっと知りたいと思ったが、彼女の母親のことを考えると直接見舞いに行くことも出来ぬ不便も、二人の間からはまだ解けぬのだと思った。
「今日はチロルの氷河の写真と、巴里祭の写真を持って来たんですよ。」
矢代はそう云って出した塩野の包みをだるく受け取って開いてみた。葉書大に引延ばされた数十枚の写真も、そんなに見たくもない様子で彼はくりながら、自分の見て来たところの美しさも写真ではやはり駄目だと失望したが、それでもだんだん引き込まれて丁寧に見始めた。
「これこれ、このときだ僕の殴られたのは。」
塩野は横から、巴里祭の日に左翼とカソリックの右翼の波の間に挟まれ、ひどく殴られつつシャッタを切った一枚を差して云った。しかし、その写真はサンゼリゼの激動の最中に撮ったものとは思えぬほど、映っている部分は静かだった。矢代は人人の押し狂っているさまよりも、背後の篠懸の街路樹が意外に沢山葉を落している姿に寂しさを感じ、あの七月十四日に早やパリは秋立っていたのかと、首をかしげて写真に見入った。
「パリ文明もこの写真一枚に出ているね。美しいところだが惜しいものだ。僕の傍にいた紳士は、何アに、これはただフランスの病気だ、こんなものはすぐ癒るとそのとき云ったがどうだかねこの病気。」
と矢代は云って写真をはねた。次にチロルの氷河の写真が入り乱れて顕れた。氷の斜面に打ちつけたピッケルの痕から、光りの飛び散るように、日の射し返った氷河の面面が繰り出て来るその背後に、一連の山脈の写真が顕れると、やはり彼は愉しくなって興奮した。ハーフレカールの峯を仰ぎ、千鶴子と二人でミルクを飲んだ白い卓布に、物憂いまで強く射したあのときの日光。足もとの紫陽花に群れた蜜蜂。氷の斜面を這い降りて来ては二人で覗いたびいどろ色の深い断層。スイスの山の方向に流れるゆるやかな雲、牧場、サフラン、――矢代は追憶の愉しさのままにも、もう写真を放したくなり、
「ああ、もうよした。」
と云って皆テーブルの上へ伏せてしまった。すると、どういうものか写真に顕れた風景とは反対に、欅の下で石を動かしている土工の日焦した腕や、東北の海沿いの白い路に熟れ連っていた無花果や、上越の茂みの下を流れ潜る水の色などがしきりに泛んだ。初めは何気なく彼はそんな景色を思い泛べていたのだったが、いつの間にか、西洋の風景に対抗させたい日本の中の美しい風景を漸次に撰び出し、組み整えているのだった。そして、まだまだ自分は日本の中に深く分け入って美しい光景を見届けて来なければ、心中やみがたく納りがたいと思い、あれこれと過ぎた日に見た、山川の美しさを引き出そうと努めた。が、ふとその緊張がゆるむ後からまた強くチロルの峯峯、南仏の海の色、イタリアの湖と、繰り代り色めき立って割り込んで来る。始末は頭の中のことだけに、矢代の意志のままには片付かなかった。
「僕はそのうちノートル・ダムばかり撮ったのを纏めて、個展をやろうと思ってるんだが、ひとつあなたも撰んでもらいたいな。」と塩野は云った。
「あなたのあれは美しい。」
矢代はそう云って塩野に賛成した。そして、人間が生活をするのは食い生きるためにちがいないとしても、意識するしないに係らず、人類共通の念願として、所詮は誰も一挙手、一投足のするところ美を造り出すために生活しているのだと思うが、君はどう思うかと訊ねてまた云った。
「それは何もただ芸術の美ばかりとは限らないさ、政治の美、経済の美、宗教の美、そのほか都市、農村、科学や学問や、法律、編輯などの美にしてもだが、つまりそれが文明なんだから、――誰も汚なさを造り出そうとして破壊もしなければ政治もしないよ。間違いかね。」
「それはそうだ。武器にしたって美のない武器を持ってる国は負けるからな。日本刀の美しさなんか、美しさとして見るだけなら、ノートル・ダムの中にあっても、断然光るね。」
塩野も自分の写しとって来た異国のものから、頭を日本の内部へねじ曲げて来ているらしかった。こういうときに起る難かしさも暫くは繰り返し、邪魔する頭の中の他のものも突き伏せて行かねばならぬのが、怠ることの出来ない、このごろの二人の苦労だと矢代は思った。実際、日本の中から汚なさが沢山に眼につき出すと、何んとかして反対に美しさを探し出したくなって、たまらなくなるときだった。
「城だって茶室だって着物だってそうだよ。もっとも、城はポルトガル人が這入って来てから、少し前とは変った傾きがあるが、それでも、あれだけの美しさにした所は、そうそう、先日僕は、信
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