ね。」
「でも、帰ってからこんなになるなんて、――」
一言いいそこなうと、こちらのなごやかさとは反対に、忽ち翳りの来るものが、争われずまだあったのだと矢代は思い残念だった。
「僕は東京へ着いた夜、自宅へ帰る前にあなたのところへ行ったんですよ。」
「まア、そう。」
不思議そうに矢代を眺めている千鶴子の眼もとに微笑が動いた。
「しかしね、そこはどういうものか、眼が醒めたみたいで、こりゃ、眠っていたときとは違うんだと気がついたというわけですよ、それだけのことさ。」
「それだけのこと?」千鶴子はまた不服そうに白んで訊ねた。
「つまり、云いようのないことですよ。だって、どうしてそんなことが僕らに云えますかね。君も僕も知ったことじゃない、おかしなものが、ふッと出て、そのまま消えたのか、まだいるのかも分らないんだからなア。まア、疲れが癒れば分りますよ。塩野君だって、現にそこで、訳の分らんことをやってるじゃありませんか。」
矢代はそういうと云いたいことが急に波だち群りよって来たが、云えば云うほど、もつれも解けずなりそうに感じられ、離れた卓上の黄菊をみつけ自分の卓まで持って来て冷たい弁に鼻をつけた。暫くそうして頭の透る香の中へ傾いているうち、ふと二つ巴の自分の家の紋章が泛んで来た。彼はその火の玉形の二つもつれた形が何を意味しているものだろうかと考えた。二個の曲玉にも似ておれば、星雲のより塊ったものにも見え、先日さがし当てた古本版の中の、言霊の亀板面に顕れた音波の原形図とも等しかった。が、最後には、地球の表面を東西に別れて帰って来た千鶴子と自分の、喰い違って廻っている今の念いのようにも見えて来ると、それも跳ね合いながらなおも廻りつづけて行くもののようでもあり、尾と頭がいつまでも追い合って、流れ去り行くものかとも思われたりして、矢代は暫く菊の香の中から、二人の身の上を卜う、無心な気持ちになろうとするのだった。
「今はむかし、という言葉があるでしょう。僕らは何げなくいつも使っているが、どうも恐ろしい言葉ですよ、これがね。」と突然彼は云って菊から顔を放し、また濠の中を見降ろした。
「あなた、ほんとにどうかなすったんじゃありません?」と千鶴子はこう云いたげに恐しそうな表情で矢代を見た。
「何んのこと、今はむかしって?」
「今がつまりむかしで、今こうしていることが、むかしもこうしていたということですがね。きっと僕らの大むかしにもあなたと僕とのように、こんなにして帰って来た先祖たちがいたのですよ。むかし日本にお社が沢山建って、今の人が淫祠だといってるのがあるでしょう。その淫祠の本体は非常にもう幾何学に似てるんですよ。それも球体の幾何学の非ユークリッドに似ていて、ギリシアのユークリッドみたいなあんな平面幾何じゃない、もっと高級なものが御本体になっていたんですね。つまり、アインスタインの相対性原理の根幹みたいなものですよ。それもアインスタインのは、ただの無機物の世界としてだけより生かしていないところを、日本の淫祠のは、音波という四次元の世界を象徴した、つまり音波の拡がりのさまを、人間の生命力のシンボルとして解しているんですね。それも函数で出てるんだから、自然科学も大むかしの日本では、そこまで行っていたとまでは云わなくとも、非科学的なものではない。妙なものだ。今はむかしというのは。」
千鶴子は一寸顔色を変え居ずまいを正した。明らかに矢代の正気を疑う風な様子だった。
「大丈夫さ。そうびっくりしなくたって。僕は先旦言霊という大むかしから伝っている本を読んだのですが、その感想を云っているだけなんですよ。面白いんだ、僕の読んだ言霊という本の中に、今の理学の大家と人類学の大家と二人が、その言霊の研究者の八木という八十のお爺さんに教えて貰ってる所があるのですよ。ところが、二人の博士が音波が函数にまで出ているのを見てもうびっくりしてるんです。つまり、この博士たちは誰より日本にびっくりした先覚者なんですね。僕はこの博士もやはり豪かったのだと思うんです。誰もそんなの聞いたって、びっくり出来るもんじゃないからな。カソリックのあなたにこういうのは失礼だけれども、しかし、こんなこともあると思われることも、たまには良いでしょう。あんまりみんな馬鹿にしすぎたんだから。たしかにその点文句は皆には云えないですよ。」
黙って何も云わず濠の底を見ている千鶴子の顔に、ときどき反抗したげに藻掻く微笑が出没した。濠の底で電車の黒い屋根が二つ擦れ違いざまに流れているのを眼で追いつつ、矢代はそれも亀板面に顕れた二つ巴の周囲を円廻する光の波の函数の図と同様に見え、面白かった。山の手省線の円鐶を貫く中央線のカーブが、その曲玉を二つ連ねた巴の線と同似形なのが面白かった。
「分って下すったですかね。僕が一度
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