とも駄目のようだって書いてあるんだけど、どんなかしら。」
 ふとまた沈みかかろうとする気力を、ひき立てては自分を支える努力で、千鶴子は矢代を見るのだった。矢代もパリ以来の二人の緊張の弛み垂るんだ面を支えようとして、快活な風を装ったが、それも千鶴子と視線を合せる機会が苦しくなってすぐ脱した。
「やはり僕の云ったことも正しかったでしょう。パリにいるときの方が怪しいっていうことが。」
 さすがにそれだけは云わなくとも、矢代はそれを云う代りに微笑ともつかず、いたわりともつかぬ薄笑いのもれようとするのも、事実ここに現れたこの結果が二人を指し示している以上、それを蔽い隠すことも無駄だった。それもみな二人にとってはこの上もない不服なことだのに、しかし、与えられた儼とした判決の後では、も早やすること為すこと自分らには余興にも似たことなのだろうか。
 こう思うと矢代は白白しくなるよりも、むしろ、二人をそんなにしてしまった何か云い知れぬその判決に対して、憤りを感じ、挑戦したくもなるのだった。
 そこへ客部屋を挨拶に廻っていたこの家の主人の沢が入って来た。丸刈り頭で眼をしぼしぼさせ、とぼけ癖の表情のまま矢代の傍へ来て坐った。
「どうです、このごろは。あッ、そうだ、今日はウイスキイのいいのがあるんですよ。およろしかったら持って来させますが。」
 沢は笑いもせずぽつりとそう云って、勝手に女中にウイスキイを命じた。矢代は由吉や塩野たちを沢に紹介するとき、この人らは君の自慢のウイスキイの本場から帰って来たばかりだと説明した。
「ヘエ、それは困りましたな。しかし、お金はいただきませんから、いくらでも召し上って貰いましょう。」
「そういう人は、ロンドンにもいなかった。」
 由吉の気転で一座は急に賑やかになると、沢は、「これは呑まれますかな。」と云って頭を掻いた。由吉は女中が持って入って来た黒い角壜の液体をひと目見た瞬間、
「いや、これは素晴らしいぞ。」と居ずまいを正しほくほくした。アルコールは廻らぬように見えながらも由吉にはかなり廻っているらしく、くだけた磊落な風格がますます出て、女中の手から鷲掴みに角壜を受けとりすぐ自分のコップに注いでみた。
「さア、これで鬼に金棒だ。」
 ひと口由吉はコップに舌をつけてから、沢を見た。
「よろしいですな。これは。」
 微笑を湛えた眼がぎろりと変ると、一瞬間閃くように光りが凄くなり、ねめ廻すあたりに逆に笑いの波を立ててゆく、不思議な猫を由吉は想わせた。彼は沢や矢代のコップに注ぎながらも、酩酊してゆく流れの底で異国に残して来た婦人の身の上に想いをはせているらしい。二三杯のみつづけたとき片肱を食卓につき、船に揺られるような調子で由吉は唄を歌い出した。
[#ここから2字下げ]
わたしの好きなものは
この世に二つある
パリの夜の街の灯し火
胸に描くは
こころのふるさと
[#ここで字下げ終わり]
 矢代は由吉の哀調を帯びた唄を聞いているうちに、何か自分のことを歌われているような切ない胸の響きを覚え、押し流され、溺れて行くような情緒に千鶴子の方を見ることも出来ず、歌詞に抵抗する気持ちがつづいて苦しくなった。千鶴子は兄の酔いざまを初めは一寸心配そうに見て笑ったが、そのうち引き摺り込むパリの夜の灯の色に、すぎた日の旅の儚ないもの音を聞きとったのか、彼女も突然くず折れるようにうつ向いたまま暫く顔を上げなかった。
 矢代もパリでの二人の日日が次から次へと思い出され、現にこうして旗本屋敷の中で対き合っている千鶴子の姿が、ますます別人のように見えて来るのだった。
「千鶴子さん、あなたお疲れになったでしょう。」
 と矢代は云った。
「いいえ。」

 眼を上げた千鶴子の顔に、走り停った強い光彩がぼッと赧らみを加えて来た。
「僕はさっきも塩野君に云ったのですが、用心されないと病気をしますよ。あなた大丈夫でしたか。」
「ええ、でも、もういいんですけど、しばらくは何んだか変に疲れましたわ。」
 物いうのさえ何んとなく恐わそうだった千鶴子の顔から、拡がりすぎてゆく漣に似た速さでかき消えた愁いがあった。
「あのときはとにかく面白かったですね。」
 と矢代は無意味に云ったが、あのときとはいつだったか考えもしなかった。実際彼は、もう面白いのはあのときで良いと思うのだった。まだこれ以上の面白さを二人でつづけようなどという慾深さは、ただ贅沢なことかもしれぬと思うあきらめに変りはなかった。
「あたしこんなに幸福でいいのかしら。こんな幸福は、いつまでもつづくものかしら。」
 とチロルの山の上で洩した千鶴子の吐息も、今にして意味深く矢代には思われて来るのだった。「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな。」こんな芭蕉の句も彼はふと思い出し、心にくいまで巧みな旅愁の表現力だと腹立ちさえ
前へ 次へ
全293ページ中164ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング