こでの自分のことも思い泛べたらしい眼鏡の光りだった。
しかし、矢代だけは一寸心が詰るように由吉の話を聞いていた。というより、千鶴子と自分のいる前で、そのような情景を話すつもりになった由吉の気持ちが、彼には呑み込めかねた。
由吉の暗示するところと多少の違いはあるにしろ、矢代は千鶴子に対っていた自分の態度を、由吉や伯爵に較べて考えずにいられなかった。たしかに自分の装いには、野暮なところなきにしも非ずというよりも、正当な愛情ある人物の取るべき態度ではなかったかもしれないと思った。しかし、そこが旅というものだとまた彼は思うのだった。旅の喜びを貫いて絶えず流れていた憂愁は、それ自身すでに恋愛以上の清めのような物思いであった。もし千鶴子と自分とが男女の陥ち入るような事がらに会っていたなら、定めし想いの残る旅の印象はよほどこれで違っていたことだろうと思った。しかもまだ今になっても彼は自分の旅情を汚す気は起って来ないのであった。むしろ、このまま今の態度を守り通してゆくことに幽かな喜びをさえ感じるのはどういうものだろう。――あるいはも早や愛情を示す時期が二人の間から遠ざかってしまっているのかもしれなかったが、それなら、それもまた善しと思われる何ものかが、新しく生じて来ていることも事実だった。実際、彼と千鶴子の事件はまったく新しく、初めてこの夜出来て来ているような、異国のことではない、沈みながらもある生き生きとしたものが生れ始めているようにも思われる。矢代はときどき千鶴子の顔を眺めてみた。それはたしかに前の千鶴子ではない、何か悩みを含んだ慎しみの深さを加えて来ている、前よりはるかに現実的な千鶴子の顔だった。
「僕はこのごろ、日本の中を旅してみたくて、仕様がなくなっているんですよ。塩野君なんかとそのうちまたいかがですか。」
と矢代は千鶴子に云ってみた。
「ええ、そのときはまた――。」
千鶴子が眉を少し開いて云いかけようとしたとき、塩野はすぐ横から「いいなア、行こう行こう。」と勢い込んで千鶴子に云った。
「そのうちみんな、どっと帰って来るから、そしたら皆で一緒に行こうや。僕は自分のこれからの仕事としても、日本の良い所を写真にとって、どしどし外国へ向けてやらなくちゃならんのだから、何よりだ。もうそろそろ明日からでもかからなくちゃ。」
塩野のそう云うのに由吉だけは一寸頭を撫で、つまらなそうに声を落して云った。
「君らはいいね。僕はそのころは、またヨーロッパだ。僕のは命ぜられるんだから仕様がない。」
なるほどまだこれから行く人もあるのかと矢代は思うと、由吉の落した声を気の毒に聞くのだった。
「帰って来たばかりだのに、行く奴の話を聞くのは面白くないなア。」
と塩野は急にがっかりしたように笑った。
「しかし、僕はさっきの矢代氏の、あのお話は面白いと思ったね。僕らは人間の幻影を拭き落してゆくのが運命だというね、僕もどうも、そんな気がするんだが。」
パイプを啣《くわ》えた大きな顔を天井に向け、眼だけで塩野を見降すようにして云う由吉の様子を見て、矢代は、突然話を切り換えたその由吉の頭の鋭さを、風貌とは似合わぬ繊細な能力をひそめた商務員だと思った。
「幻影か――」と塩野は云ったまま黙っていたが、
「さっき来るとき矢代君、妙なことを云いましたね、枯葉の散って来たときさ、僕らは天罰を受けたと、君は云ったよ。あのとき何んだか僕ぞっとしたね。」
笑い話のつもりらしかった塩野の意図に反して、何んとなく座は一瞬しんと静まり返った。千鶴子は座を立ってひとり外へ出て行った。別に眼ざわりな立ち方ではなかったが、前から話の途中に席を脱す癖のあるのが千鶴子の欠点だと矢代は思っていたので、また始ったと思い気にかかるのだった。
チロルの山の上での夜も、急に見えなくなった彼女を探しに行くと、氷河を向いてひとりお祈りをしていたことなど思い出し、千鶴子の心の中でカソリックはどうなっているのかと、暫く彼は憂鬱に食卓の上に肱をつき彼女の戻るのを待っていた。
由吉は陶器に趣味があるのか出て来る食器を取り上げ裏を返した。そんなことなどいつもは矢代の気にならぬことだったが、それが千鶴子の兄の癖かと思うと自然に彼も注意した。
千鶴子は化粧を直してまた部屋へ戻って来ると、出て行ったときとは違い、特長のある靨も明るく笑顔をひき立て、何か今度はしきりと矢代に話しかけたそうな視線だった。
「真紀子さんからその後お便りありましたか。」と矢代は訊ねた。
「ええ、ミラノからいただきましたわ。何んだかひどく寂しそうなお手紙よ。あなたには?」
「僕には二三日前に久慈から来ましたが、また喧嘩を吹きかけて来た。どうも久慈とは、とうとう碁敵みたいになりましたよ。」
「久慈さんからあたしもいただいたの。真紀子さん
前へ
次へ
全293ページ中163ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング