一人が馬鹿なことをすれば、良いことをしているものでも人間は同罪になるらしい。そこが人間の面白さじゃないかな。とにかく、下へもう降りよう。それから今夜は一つ、君らのその自然に還るところを見せてもらいたいものだな。」
「ようし、人間は同罪だ。行こう。」
と久慈は云って勘定を命じてから立ち上った。
「そこで真剣勝負だぞ。」
と矢代も云った。間もなく、三人はそれぞれ自分の影を後ろに倒しつつ山から下の遊び場の方へ降りていった。
パリではモンマルトルの麓に一番高級な踊場が沢山ある。その中の一二を争う家を選んで三人は中へ這入った。メイゾン・ルージュは中が全部紅いだった。あまり広くはない正面の楽師たちに絡りついている真鍮の楽器の管から、しっかりと音締めの利いた音がもう久慈の胸中に吹き襲って来た。ふと彼はそのとき真紀子と逢う用事のあったことを思い出したが、椅子へ腰を降ろすと忽ちそれも忘れてしまった。踊子たちが三人の傍へよって来た後から、すぐシャンパンが氷につかった桶のまま運ばれた。部屋の中央で踊るものは踊り、休むものは椅子に休む。
「ははア、これは千九百二十六年のだな。」
と東野はシャンパンのレッテルを読んで感心した。東野の説明ではその年はここ五十年間のうち一番良質の葡萄のとれた年で、味もその年のが断然良いとのことである。西印度生れの歯の白い混血の踊子は締った良く動く体で、休んでいる暇にも音楽に合せて笑い、振り向き、話しつつ膝で拍子をとっていた。間断なく鳴りつづけるバンドの調子を客の心も脱すわけにはいかない。絶えず上へ上へと浮き上っていくリズムは、船が船客をつれ歩くように室内の空気を果しなく揺っていく。カルメンのように顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]のカールを渦巻き形にしたイタリアの女は、シャンパンの世話をするにも絶えず笑っていた。何がそんなに面白いのかと思わせるような笑顔は、踊子だけではなくどの客も同様だった。それもバンドがそんなに鳴りつづけていると、もう部屋には特に音楽が満ちているとは感じない。ただ心は何ものかある中心に向って前進していくばかりだった。
「ここの女は本物だぞ。まさかこれまで嘘じゃなかろう。」
と久慈は云ってイタリア人の肩を撫でてみた。
「しかし、これも自然じゃなさそうだよ。」
と矢代はコップを上げ理由もなくまた笑った。
「そうだ、もうこれや、どこへ行っても僕たちは自然に還れそうもなくなったよ。乗せられてばかりだ。どうです、東野さん、まだあなたは俳句を考えているんですか。」
と久慈は浮き浮きしながら東野の顔を覗き込んだ。東野はイタリア人の腕を握ってみて、
「この婦人はね、僕にどうしてそんなに淋しそうな顔をしてるのかと訊ねるんだが、そんなにまだ僕は淋しそうかな。」と訊ね返した。
「うまい、このシャンパン。」と矢代はひとりコップを上げていた。
「しかし、こんな婦人から淋しそうだと云われると、どうも妙な気がするね。千年も前からつづいている電話の線が尻っぽにくっついていて、そこから話が出て来る電話を聞いてるようなものだ。」と東野は云った。
「おい、君は電話だそうだよ。はははは、電話と一つ踊ろう。」
と久慈はもうよほど酔の廻った体でイタリア人の腕を吊り上げた。矢代も西インドをつれて踊った。そこへ花売が薔薇を持って来ると、傍にいたフランス人の踊子がそれを買っても良いかと東野に訊ねた。薔薇を見もせず東野は首を一つ動かした。すると、日本でなら二十銭の小さな薔薇の値段が三十円だった。三十円が五十円であろうとバンドはすでに東野の頭をもいつの間にか浮き上げているのだった。部屋の隅から、客のシャンパンばかりをじっと見詰めているユダヤ人らしいマネージャーが、時間を計って氷に万遍なくシャンパンの触れるようにと壜を廻しに現われた。コップに注がれるシャンパンに随ってテーブルの上に皿が重ねられ、その皿の数が遊興費となる踊場では、頭が朦朧となるにつれて皿の柱も延び上っていく仕掛けだった。久慈が踊って椅子へ戻って来る度びにイタリアの女は東野に踊ろうと迫ってきかなかった。
「いや、電話とじゃ踊れないや。」
と東野は日本語で云った。分りもしない日本語の癖に女は相槌を打って笑った。もう三人とも誰の話も聞こうともしない。踊子らにシャンパンをすすめながらそれぞれ勝手なことを話しているうちに、
「ほう、これはどうじゃ。」
と矢代が高く柱となって延び上っている皿を見て笑った。
「ははア、元気がいいな。生きとるぞ、こ奴。」
と久慈も面白そうにテーブルの上の皿を見ながら笑った。初めは一本だった皿の柱が二本になって延びていた。いつの間にか客たちは部屋いっぱいになって来ていたが、三人はもう他の客の顔など見えなかった。イタリアの女は一番女たちから敬遠される
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