ていたら、後ろから突然首を締められて、三十分ほどしてから気がついたら、自分がここの坂の真ん中で倒れていたとか云ってらしたな。」
と東野は云ってそのあたりを見廻した。森森とした坂の中で東野の声はよく響いた。古びた血のような色の建物はみな窓を閉めていて、道の割石の弛んだ隙間がタッチの凄い鱗のように黒くうねうねと這い昇っていた。
「今夜はどういうもんか、論争がしたくて仕様がないな。山にいたからかね。」
と矢代は低く呟いた。
「相手に不足はないぞ。」
笑いもせず見返る久慈の精悍な額へ青葉を透した瓦斯灯の光りが鋭く流れた。
「もうどこもかしこも政治の話ばかりだが、これで巴里祭の右翼と左翼の衝突が見ものだな。君らの論争も良い加減に結論をつけておかないと、七月十四日には血を流すぞ。」と東野は坂路の息苦しさに立ち停りながらもひとり笑った。
「昨日はもう人民戦線の歌が出来たというからね。国歌はマルセエーズじゃなくて、人民戦線の歌だというのだ。」
そういう久慈に矢代は、
「右翼のマルセエーズが革命歌じゃないか。それへまた革命歌か。」と面白そうに笑った。
「幾度革命が来たって、お寺だけはいつまでもあるのだ。」
東野はすぐ頂上に聳えて来たサクレクール寺院の尖塔を眺めて云った。頂上へ近づくに随いぼろぼろに朽ちかけた建物が、海老茶や緑の油で痛めた色に滲んで来る。史跡保存で改築を許されぬ一角であるだけに、パリの冠った古帽子のこの中には何ものが棲んでいるのか分り難い。夜毎に軽機関銃で撃ち合いを始めるというのもこのあたりであろうと、久慈は光りの洩れる窓の見える度びにそっと中を覗いてみた。
戸口にカフェーとだけ書いてある小さな一軒のドアの、眼の届くあたりに一つ小窓があった。久慈はそこからふと覗くと、中はパリでほとんど見られぬ女給ばかりのカフェーだった。
「ここには女給がいるよ。稀らしいね。一寸這入ろう。咽喉が渇いた。」
久慈は相談もなく一人肩でドアを押し開けて這入っていった。矢代と東野も身を横にするような狭い入口から後につづくと、ぎしぎし鳴る椅子に凭れた。薄暗い狭い部屋の空気は濁った汗の匂いで鼻を打った。
「これや汚いね。出ようや。」
矢代がそう云って立ちかけようとしたとき、花売娘のような様子の十人ばかりの女給の中、若い三人がいきなり矢代にしなだれかかって来た。
「あら、もう帰るの。いいわよ。煙草一本頂戴な。」
身体を不必要なほどに捻じ曲げ、腰を動かしながら擦りよって来て出す手首の骨が高く大きい。ひどい脇臭のうえに、鼻の両側のまだらな白粉の下から脂肪がぶつぶつ浮き上っていた。久慈と東野にもそれぞれ煙草をせがんでいる女たちも、両肩をすぼめ猫撫で声で煙草をくれとせがんだ。久慈ら三人は顔を同様に顰めながら黙って煙草を出してやると、女たちは放れて煙草を吸いつつ、それぞれ鼻声の沈んだ唄を歌い出した。
「これや、男だな。」
と久慈は小声で矢代に耳打ちした。
「うむ。」
と矢代も、実は自分もさきから怪しいと思っていたという風に頷いた。見れば見るほどどこからどこまでも女だが、しかし、やはり争われぬ一点の底が男だった。それも、一人ずつ女たちを見廻していくうちに、勘定台にいる女もヴァイオリンを弾いている女もすべてが男だった。久慈は腐った筵を引き剥いだ後からにょろにょろ現れて来る青い蜥蜴を見付け出すように、一度ずつ悪感が胸を走った。男だと見破られた女たちはもう二度とよって来なかったが、また別のが来て、「何んになさいますか。」と女の声で今度は快活に訊ねた。
三人はビールを註文したが、コップが揃っても誰も義理に一口つけただけで、気味悪さにそれ以上飲もうともせず話もしなかった。久慈らの傍へ初めに来た女らは部屋の隅に固まったきり、嫌われたことをさも羞しそうに悄れて俯向いたまま、青い灯の下でいつまでも黙っていた。これがもし本当の女だったらたしかにそんなに痛手であろうと思うと、久慈は不思議に女らの悲しげな様子がまた本当の女のように見えて来て、
「おや。」
と一瞬自分を疑った。確実に男だと分っていながら、だんだん気の毒になっていく不安な気持ちの落ち方が、一種新しい未知の世界に踏み込むような錯覚を感じさせる。それが向うの手腕だと思っても、それぞれもうこれで男を越した女以上の理想の女になっているのかもしれない。
「もうたまらん。出よう。」
と矢代は云った。そして、身を動かしかけたと見るや、今まで悄れていた女たちは、ぱッと飛び立つような早さでまた矢代にしなだれかかって来た。
「もう息が出来んよ。」
「何に? え? え?」
と女は嫣然と笑いつつ片腕で矢代の首を抱きかかえて覗き込んだが、何も云うことがないと見えまた煙草をくれと彼にせがんだ。
勘定台の女は遠くから女給たちの成績
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