、当時の偉人を幽閉するに恰好な島だとは、矢代も、それ一つでこの国の優雅さがすでに頭に這入って来るのだった。
船が島を廻ると長方形のマルセーユの内港が、波も静かに明るい日光の中に見えて来た。船は速力をゆるめ徐徐に鴎の群れている港の中に這入っていった。鍵形に曲った突堤と埠頭の両側から、吊り橋のように起重機が連り下っている。その向うの各国の汽船のぎっしり身をせばめて並んでいる中に今やこれから日本へ帰ろうとする香取丸が、慓悍《ひょうかん》な黒い小さな船尾だけ覗かせ煙を吐いて泊っていた。あの科学の塊りのように見えていた汽船が、今は無科学の生物のように見えて来る。
「香取がもう立ちますよ。日本へ帰るんですよ。」
と船員が、もうすっかり日本を忘れてしまっている皆の船客たちに歯痒ゆそうな声で報らせた。しかし、今著いたばかりの一同には、もう知りぬいて倦き倦きしている日本の船のことなど考えている暇はなかった。まったくの所、まだ見たこともないヨーロッパが足の下に実物となって横たわっているのである。早くこの怪物を一つ足でぎゅうっと踏んでみたい。しんと息を飲み込んだ鋭い無気味な静けさが船客たちの間に浸み渡った。物憂くなるほどの明るい光線を浴びて、人人はただ船足の停るのを今か今かと見守っているばかりである。
矢代は、いつの間にやらゴールへ来てしまった自分を感じた。船はマルセーユの埠頭へ胴を横たえようとしている。静かな静かなそのひと時だった。――
矢代は、今まで自分を動かして来た総ての力もここでぷつりと断ち切れ、全く新しい、まだ知らぬ力がこれから先の自分を動かして行くのだと思った。やがて、船から梯子が埠頭へ降ろされた。どやどやと梯子を登って来るヨーロッパの人間の声が聞える。
「では、皆さんどうも、長長お世話になりました。」
一人の船客が別れの挨拶をした。
「ではお身体お大切に。」
「さようなら。」
こういう会話の後で、急に、
「ああ、香取丸が出て行くよ。」
というものがあった。矢代は見ると、小さな香取が船尾を動かし、静かに体を曲げ、何の未練気もなくさっぱりとした態度でさっさとマルセーユの陸から離れていった。
「僕も帰りたいなア。」
と船客の一人が溜息をついた。矢代も甲板に立って香取の姿が煙を流し見るまに港の外へ消えて行くのを眺めていたが、間もなく始まる上陸である。これから上陸許可証を貰い荷物の検査もすまさねばならぬ。矢代は出て行った香取の行方を見送りつつ、「じゃ、さようなら。」と胸の中で云っているときだった。
真紀子が良人らしい中年の紳士を連れて来て矢代に云った。
「これ宅でございますの。」
「そうですが、いろいろ船中ではお世話になりました。」
「いや私の方こそ御迷惑をおかけしまして有り難うございました。」
肩幅のある早坂氏が微笑を含み、鄭重な挨拶の横からまた真紀子が嬉しそうに云った。
「もしウィーンの方へでもいらっしゃることがございましたら、どうぞ、是非いらして下さいましな。」
「ありがとうございます。そのうちに、一度あちらへも廻りたいと思いますから、そのときにはお願いします。」
どことなく一抹の冷たい表情で早坂氏は礼をすると、妻の荷物の方へ去っていった。後のサロンではパリへ行く船客たちが一団となって、今夜もう一度船へ帰って泊めて貰い、明朝早く揃ってパリへ行こうという相談が一致しかけていた。このような時でも沖氏はいつもの剽軽な調子で、
「そうそう、そうしなさい。今夜はゆっくりマルセーユで遊びましよう。久慈さん、私はあなたを愛しますというのは、フランス語じゃ、どういうんですか。これさえ覚えとけば、もう大丈夫だ。」
一同が声を揃えて笑うとすでに一団の行動はそれで定められたと同じであった。
「つれしゃるまん。というんです。」とある商務官が洒落て云った。
「つれしゃるまん。つれしゃるまん。」
と幾度も沖氏は呟いてみていてから、
「マルセーユつれしゃるまん覚えけり、と、これや、どうです。」
ときどき船中で試みた俳句の手腕を沖氏は早速使ってまた皆を笑わせた。
荷物も税関もすませてから、何となく遽しいごたごたとした気持ちのまま船客たちは自動車に分乗してマルセーユの街の中へ流れ込んだ。街は税関の門を一歩出ると、早くも敷石の上に積み上っている樽の色から芸術の匂いが立ちこめて襲って来た。車が辷って行くと、立ち並ぶ街路樹が日本の神社仏閣にある巨木と同様に鬱蒼として太かった。まるで街路が公園のようで、両側の石の建物を突き跳ねそうに路いっぱいに枝を拡げた大樹の下を、惜しげもなく車は駆けていく。どこの街か分らなかったが、これが馬車だったら一層良かっただろうと矢代は思った。街路樹の大きさと年を競うように周囲の建物もまた古かった。触ればぼろぼろ崩れそうな灰
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