でぃったんじゅうるたん
どるまん
だんのうとるろっじゅまん
じぇべいねすうばぁん
ぷうるてるべいるふぁれどら
るじゃん
[#ここで字下げ終わり]
 唄がすすむままに一同はもう上機嫌になって、間もなく眼の前に現れて来るパリの実物に接した思いで、それぞれ首を振り振り唄うのであった。この唄は一度終るともう一度もう一度と、皆は千鶴子をせきたててやめなかった。


 今日はいよいよマルセーユへ著くというので船客たちは朝から誰も落ちつきがなかった。食卓のボーイや酒房や部屋つきのボーイにチップをやらねばならぬ。客たちはあちらこちらに塊って幾らやるべきかという相談をしていた。誰か一人の者が巨額のチップを与えれば他の者が不愉快になる。長らく共同の生活をしたのであるから、均衡を乱しては船中の愉快さも最後の一日で消えてしまう。このことは礼儀として一応船客たちの誰も考えねばならぬ最も重要なことであった。勿論、印度洋あたりの無聊《ぶりょう》なときに、チップの金額を一定にしょうと云い出すものがあって、すでに金額は定まっていたのだが、さて支払日となると規定のことも破れてしまう。別れてしまうのも後数時間のことである。あれほど親しかったものたちも、「別れてしまえば、」と思うと、誰もうとましくなるものであった。船中は楽しかったとはいえ団体生活であるから、思えば誰にも自由がなかった。不快なことがあっても忍耐をしていなければならぬ。殊に同じ一等の船客ばかりであってみれば、日ごろ日本にいるときの地位や名誉や財産などは、何の権威にもならなかった。階級差別の何もなくなってしまっているこのような所では、ただ人の性格と年齢だけが他人に働きかけるだけである。
 船客たちが団体で港港に上陸したときの金銭の貸借も、今日は整理をするのだが、誰が誰に貸しがあり誰が誰に借りがあるかは、も早や混雑して分らなくなっている上に、僅の金を返せ返せと云って廻る面倒も若者たちはしたくなかった。それを知った沖氏は自分からその面倒な整理を申し出た。
「僕は日ごろ他人を使ってばかりいて、使われたことがないから、こんなときでも一つ使われてみましよう。」
 こう云って沖氏は人人の間を皿を持って廻り、他人の複雑な貸借をいちいち整理して歩いた。船の中では老人は威張れないが、この沖氏は諧謔と滑稽さとでやすやす若者たちを統御して最後の務めもし終えたのである。
「さア、これで良ろしと。」
 いつ船が著いてもかまわない。中にはまだ陸も見えぬのにもう早く帽子まで冠っているのもある。甲板に出てみたりサロンに引っこんだり、船中を隈なく歩いてみたり、不安そうな顔つきで話さえあまり誰もし合わない。すると、突然、矢代に、長いそれまでの船中の生活で日本語を知っている様子を一度も見せたことのないフランス人が、驚くような流暢な日本語で、
「どうです、いよいよですな。」と話かけた。船中の外人は一度び船へ這入れば誰も日本語を使わない、全く知らぬ様子《ふり》で人の話を聞いているのが例だから用心をするようとの訓戒も、初めて、なるほどと今になって矢代は気が附くのだった。
「円をフランに今しとく方が、都合が良いですか。」
「そうそう、少しばかりしときなさい。」
と、フランス人は答えた。しばらくして、
「そら、見えたぞ。」
 と云うものがあった。矢代は甲板に立つと、お菓子の石のような灰白色の島が波に噛み砕かれているのが眼についた。
 甲板に立つ船客たちはだんだん多くなって来た。誰も笑うものはない。海上に連った銀鼠色の低い岩が後へ後へと過ぎてゆく。瑠璃色の鋭い波の上には風が強い。
 久慈と矢代はまだ見ぬヨーロッパの土の匂いを嗅ぐように、サロンデッキの欄干に身をよせかけ黙ってさっきから眺めていたが、突然、久慈は、
「何んだ、これや、クリスマス・ケーキみたいな所だな。」
 と呟いた。一同どっと笑い出して、
「そうだそうだ。」
 と云う。しかし、すぐまた黙ると、これは日本で習った礼儀作法や習慣は、何一つ通用しそうもないと、そろそろ身の処置にまごまごする不安が一同の顔に現れた。息の仕方もここでは頭でしなければならぬ。群れよる鮪の大群の中へ僅かな鮒がひらひらさ迷い出るように、押し潰されそうな幻覚を感じ、岩を噛む波の色までお伽噺の中の人魚を洗う波かと見える。
「向うに見えます島は、デュウマの小説に出て来る巌窟王の幽閉された岩屋です。」と一人の船員が説明した。
「マルセーユはどこですか。」と一人が訊ねた。
「もうすぐです。この島はマルセーユの外郭です。」
「セメントでも出そうなところですね。」と矢代は云うと、
「そうです。マルセーユはセメントの産地ですから。たしかにそう見えましょうな。」
 と船員が答えた。大きな波が一うねりどっと来ればたちまち姿を没しそうな小さな島が
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