。アンリエットは軽快な速力に合せるように今流行の小唄を歌い出した。
――夜のヴァイオリンがかすかに鳴っている。甘いやさしいメロディに、愛する楽しみと、生きている喜びを、わたしらにささやいていてくれる。――
このような感傷的な唄もフランスの婦人が歌うと、水に浮んでいる白鳥も花も一しお矢代に旅の愁いを感じさせた。行き過ぎるボートの中からもアンリエットの歌に合せて低く唄うものがあった。千鶴子は指さきに水を浸しながら、遠ざかって行くボートの紅の提灯を振り返って眺め、オールが水を跳ねても水面に尾を曳く波紋から眼を放そうとしなかった。パビヨンロワイヤルの桃色の明りが見えて来ると、島に繁った花の樹が水の上から次第に白く朧ろに浮いて来た。
ブロウニュの森からサンゼリゼまでは、自動車に乗る間もないほど近かったカフェー・トウリオンフは凱旋門から下って来た左手にある、大きなカフェーの一つである。パリの日本人で上流階級を意識に入れて活動しなければならぬ人人の多くは、下町のモンパルナス一帯には出没しないが、山の手のサンゼリゼのカフェーにはいつもよく姿を現した。モンパルナスの日本人らは、山の手組の日本人を小馬鹿にして、「十六区のお方。」と呼び、サンゼリゼ組は下町者を、近よれば斬らるるのみと軽蔑して相手にしない風があったが、久慈や矢代は来て間もない一団であったから、日本人の縄張りなど考えている暇もなかった。
カフェー・トウリオンフのテラスには、数百の真紅な籐椅子がいつも道路に向って並んでいた。この日は夜であったから、久慈たちの一団は赤い皮張の屋内へ這入ってフィンを命じた。淡紅色の紫陽花《あじさい》の一面に並んでいる壁面には、豪華な幕が張り廻らされ、三方に映り合った花叢はむらむらと霞の湧き立つような花壇であった。丁度、紫陽花の中から楽士たちのタンゴが始まり出したときである。
「やア。」
と云って這入って来た三人の日本人の一人が、東野の方を見て手を上げ近よって来ると、すぐ傍の椅子に並んだ。東野は新しい人人を久慈や矢代にそれぞれ紹介した。それらの人人は、日本の大使館に出入する若手の技師の塩野と、平尾男爵、書記官の大石であった。いずれもこれらの人人はパリの上流階級のサロンへ出入しなければならぬ関係から、山の手の人人の中でも代表的な紳士たちというべきであったが、永く帰らぬ東京の様子など懐しそうに訊ねられるまま、千鶴子や久慈が答えているうちに、突然大石は千鶴子を見て、
「じゃ、あなたはロンドンの宇佐美君の妹さんですか。」と驚いて訊ねた。
「ええ、兄を御存知でございますの。」と千鶴子も全く意外な様子であった。
「知ってるどころじゃありませんよ、あなたの小さい時を、僕は見たことがありますよ。」
「ああ、あの宇佐美君か。」と塩野も思い出したと云う風に、
「僕と大石とは暁星の同級でしてね、宇佐美君もそうでしょう。」
このようなことから話はますます一致して進んでいくと、手ぐるように共通の知人が三人の間から続続と現れた。
「じゃ、一度御招待したいと思いますから、明日はどうですか。お暇でしたら六時にいらして下さい、僕らは皆一緒の所におりますから。」と塩野は云った。
「ええ、ありがとうございます。」
千鶴子は礼を塩野に云ったものの、他の者が多くいるのに自分一人招待される苦しさにちらりと矢代の方を窺った。傍で前後の様子を聞き知っている矢代は、千鶴子一人を引き抜くような塩野の申し出にも、むしろ裏のない誠実さを感じた。彼はフィンに染った眼もとで、紫陽花の上で輝く楽士のトランペットを眺めながら、パリの上流のサロンに出入している人物は、人前でも塩野のような流儀の挨拶をするのが習慣であろうと思った。
「それでは、お待ちしてますから、夕暮の六時ですよ。」
と塩野はまた念を押した。事実、この塩野は学界の名門の一人息子であったが、質の良い貴族の品位を想わせる目鼻立に、明朗率直で親切な性格がどこともなく噴き現れている青年だった。矢代は東野や大石などの話す言葉を聞いていると、塩野は写真学校の教授で、パリで開いた彼の個人展覧会も、パリの写真専門家の間では、なかなか好評だったらしい様子であった。間もなく一同の話は著いた当時のそれぞれの困った話に移っていった。
「僕は一度こんな所を見ましたよ。」今まで黙って一言も云わなかった東野は云った。
「それもここのカフェーですがね。丁度、僕は久慈さんの坐っているそこにいたのですよ。他に日本人も三人いましたが、隣のテーブルに、印度支那の安南人が四人ほど塊っていましてね。そこへ、ある外人が三人ほど這入って来て、坐ろうとすると椅子がいっぱいで、どこにも坐れないんです。そうしたところが、その男はボーイに、
『ここにいる東洋人を、皆追い出してくれ、その分の金は払
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