このまま見附からない方が良いとも矢代は思い、もうゆっくりと肚も坐って来るのだった。
「さア、しまった。いよいよ帰れなくなった。」
と矢代は云って立ち停った。二人は黙って水辺を見降ろしていたが、
「いいわ、行きましょう。」
と千鶴子ももう元気な声で云うと、自分から矢代の腕を持ってまた歩いた。
闇に馴れて来ると森はさまざまな匂いを放って来た。パリに永く生活している人で、闇夜に森の中を婦人と二人で歩くことほどこの世に幸福なことはないと云った言葉を、ふと矢代は思い出した。
なるほど、これが幸福なのであろうか、ただこれだけのことが、と矢代はひとりそんなに思いながらも、湖に浮んでいる紅のまん丸い提灯の色が、もう光明のまったく失せた悲しい最後のなやましげな紅さだなと頷くのだった。
「この森をパリの街の真ん中に是非残しておけと云ったのは、ナポレオン・ボナパルトだそうですが、豪い男だと思いますね。あの男はただの豪傑じゃなかったのだ。」
「広いのね。これでどれほどあるのかしら。」
「周囲五里というんですよ。」
「まアこれで。」
と千鶴子は云っても別に驚いた風ではなかった。二人の歩く道の下に岸がつづき真白な花をつけた枝が水面に垂れていた。ボートがこんなに見えない筈がないと思うと、矢代は「おーい。」と呼んでみた。
「おーい。」と東野の声が樹の繁みの下から聞えた。
「あら、東野さん、ボートに一人いらっしゃるんだわ。」
千鶴子は繁みを廻りスロープを降りていってみると、ボートの中にはやはり東野が一人しょんぼり坐っていた。
「久慈君まだですか。」
矢代は訊ねながら千鶴子と二人で灯の消えたボートに乗った。
「お一人で何してらっしたの。」
と千鶴子は気の毒そうに訊ねた。
「俳句を作ってたんですよ。」
「良い句出来ましたか。」
矢代の訊ねるのに東野は、「いや。」と云っただけで提灯の新しい蝋燭に火を入れた。
「おーい。抛っとくぞオ。」
と矢代はオールを持って森の中の久慈を呼びつつ少しあたりを漕いでみた。
「どこだア。」と久慈の声が遠くの闇の中からして来た。
矢代はまた呼びながら声の方へボートを近づけてゆくと、しばらくして久慈は水際へアンリエットと二人で現れた。
「やア、弱った弱った。ボートがどれも違うんで、分らないんだよ。」
互に顔がぽっと見えるだけの提灯の明るさの中へ、白鳥が水に浮んだ花の群れを胸で割りながら泳いで来た。皆が道の暗さを云い合っている所へ乗り込んで来て、オールを動かし出した久慈に、矢代は、
「東野さんは俳句を作ってたんだって。ひとりならそれもいいな。」と云って笑った。
「俳句か、ここで俳句なんてどんなの出来るんです。」
と久慈もやや嘲笑の口調だった。
「白鳥の花振り別けし春の水。」
真面目な顔で句だけを投げるように東野は云ったので、一同一寸黙って考えていたが、突然、
「いや、やられた。」
と久慈は頓狂な声を上げた。
矢代は思わぬ不意打を食ったような苦笑ながらも、今は東野の諧謔にボートの動揺も気持ち良かった。ボートが岸を放れていくにつれ岩を打つ滝の音が聞えて来た。
「あそこよ。滝」
とアンリエットは垂れ下った樹の下を指差した。
「じゃ一つ、僕も俳句を作ろうかな。」と久慈は云ってオールを廻しながら、「えーと、ブロウニュの、滝も無言《しじま》を破りおり。どうです東野さん。」
「そんな句ないよ。」
と矢代は云うと皆どっと笑った。久慈はまた、
「それじゃ、これやどうじゃ。」
と小首を一寸かしげてから、「ブロウニュのオール少しく鳥追えり。」
ふざけていた久慈の句も幾らか緊って来たその変化に、
「ふむ。」
と、矢代はしばらく考え黙っていてから云った。
「そんなら、これはどうかね――白鳥の巣は花に満つ春の森」
「うまいね君は。いつ習ったんだ。」
と久慈は感心して、「ようし、じゃ、も一つやるぞ。」とまた競い立って考えるのだった。千鶴子は舟ばたで一人腹をかかえて笑っていた。ときどき道路を疾走する自動車の光が森の樹木を貫いて消えていった。一行はオールを軽く動かしていたが、真面目に俳句を考え出したと見えて、誰も空を仰いだり森を見たりして黙っていた。そのうち久慈は、
「よし出来た。今度は傑作だぞ。」と前ぶれして思い出す風に、
「春の夜の月さまざまな水明り。」
と調子よく読み下した。
「高等学校の歌じゃないか。」
と矢代はひやかしたので、またボートの中は笑いに満ちた。しかし、久慈だけは一人、「馬鹿を云え。」と云いつつも得意そうにオールを勢い良く動かしていった。
東野は煙草の灰を水に払い落しながら形の良い白鳥の姿をじっと眺めていた。
「さア、早く上って、サンゼリゼへ行こう。」
久慈の声に応じて矢代もともにオールに力を入れて漕いだ
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