崇高な輝きを見てとって、儼としてその危険な一線に踏み停ってみたところに、日本のある優美な精神の限界を見た思いがした。
「この光琳は活眼ではないが、涙眼ですよ。人は活眼の方が良いというけれども、しかし、涙眼もこうなると、もう涙にうるんで人には分らないな。」と矢代は、人があたりにいないのを幸い、東野にだけ聞えるように云った。
「活眼はこの友松だよ。」と東野は云った。
「これはまだ象眼を脱けたばかりだ。」と矢代は一寸云い返した。
「いや、これを象眼と見るのは、君の眼が光琳の涙にうるんでいるからさ。たしかにこの友松も素晴しいよ。第一、これは非常に純粋だ。」
 海岸に網が干してあって、その上から帆のかからぬ柱が二三本見えるだけの、簡単な、直線の部分ばかりで構成された白描風の屏風絵だった。
「しかし、これは十の字を描いて、これこそ一番純粋な絵だという、例の、そら、モンドリアンだ。誰にでも純粋に見えるところを、純粋にして見せただけの工夫でしょう。」と矢代はまだ東野に譲らなかった。
「しかし、この時代にこれだけの絵画理論を結晶させて見せただけでも、ピカソだよ。しかも、あの網目の直線と柱の交錯を見なさい。それに一寸、松の枝ぶりの柔い線を配してある結構なんて、ちゃんと伝統も失っちゃいない。これが活眼というものだよ。実にはっきりと、美しさというものの本質を見極めているのじゃないか。」東野の振り仰いでそう云うのを、少し真紀子に味方をし始めて動いてきたなと、矢代は思った。
「もっとも、僕はこの干網に失礼はしたくはないが、こうして、傍に光琳のあやめにいられちゃね。」
「光琳のは有るべき難しい肉を払い落しているよ。同じ肉を落すなら、初めから網や柱を選ぶ方が、徹底している。頭のいい絵さこれは。」
「まア、どっちも人間が一人もいないから、美しくなったのだなア。」矢代は、ともかく云わせて貰っただけの有りがたさを絵から感じ、ベンチを立った。
「うむ、それそれ。」と東野も烈しくもならず、気に入った笑顔で矢代の肩を優しく叩いた。「これはどっちも、描き良いのだよ。僕等は物云っては腐っちまう、人間のことばかり書かなきゃならんのだからね。」
「いや、腐るもの、それが良いのだ。」
 矢代はそう云いながら、ほの暗い仏像の並んだ次の部屋へ這入っていった。ここではもう争うものは一つもなかった。群った男体女体の美しい仏たちの前を通り、曲った胴の剥げ落ちた胡粉や、ちらりと唇に残った紅の艶から、矢代は、やがては腐るもののおびただしい視線を吸いとって来た年月の、ある恐怖を誘う云いがたく静かな水水しさを感じるばかりだった。
 博物館から四人が出て来たときは、まだ門前の椎の嫩葉に光が射していて、芝生の色の明るい方へ自然に足が動いた。東野は夕暮から出席すべき会があるというので、そこで別れて地下鉄の方へ真紀子と降りていった。矢代は千鶴子と陽のよく射した茶店を選んで赤い毛氈の床几に休んだ。どちらも疲れて黙っていた。そして、茶と鶯餅とを貰ってからそこに二人で並んでいると、矢代は何か急に老人じみた感じを覚え、またそれが却って一種ほがらかな、ゆったりとした気分になるのだった。
「ね、君、ちょっとお爺いさんお婆アさんになったみたいで、いいな。」
 言葉もなくぼんやりと額に手を翳し、芝生を見ていた千鶴子はふふと笑った。
「芝生まで何んだか明るく見えるもの。」
「ほんとにね、お仏さんを沢山見たからだわ。」
「博物館を出て来ると、誰も少しは浦島太郎になるのかね。」
 矢代はかるく鶯餅に手を触れてみて、こういう微妙な触感のものなど外国には一つもなかったと思い、めでたい感じで摘まんでから指先の粉を擦り落した。尖塔に似た博物館の屋根がはっきりと白く浮いていた。それはこうして離れて見れば見るほど、争われずカソリックから影響を受けた建築に見えた。
「ね、あの屋根、サクレクールそっくりでしよう。」と矢代は粉のついた指で尖塔を指した。
「そうね。一番似てるわ。」
「僕らの外国へ行く前にはあれはなかったんだが、こうしていつの間にやら、みんな集って来るんだなア。」
 彼は尖塔を眺めているうちに、ふと傍に並んでいる千鶴子が松濤の木椅子の上で洩した言葉を思い出した。
「君はさっき松濤で、何んだかしら恐いと仰言ったが、別に恐れる要はないですよ。あのようにだんだんなっていって、中にはお仏さんもちゃんと並ばれるようになるんだもの。何んでもないさ。」
 しかし、千鶴子はやはり黙っていた。矢代は鶯餅をまた一つ摘まむと、仏像の唇に滲んだ艶も指さきにつくように覚えお茶を飲んだ。緋色の毛氈の反射が赤赤と顔を染めるようだった。そして、自分の花嫁はまだ何かを少し愁いながらも見事にその上に坐っているのだった。


 九時の夜行で矢代は九州へ発った。
 千鶴
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