りましたよ。もっとも、そのときの愛人は今の主人かどうかは疑問だが、あれほど細君から感謝され通している主人というものも、僕はまだ見たことがないなア。賞めるわ賞めるわ。またこの大工は、嘘というものが云えない人物でね。」
 矢代は、このような原始的な、いのちの歓びに溢れた夫婦の美しさを、いつの間にかもっとも低級と思いがちになっている一般の判断がおぞましくて云ったのだが、しかし、そんな自分の意見は、この場合まだ二人には棘となって立ち云い出しがたかった。
 千鶴子は笑いとまってからも思い出してからまたくつくつ笑った。それも暫くしてから、先日矢代に出した自分の手紙のことも同時に思い泛べたと見え、
「もうあなたには、これからお手紙あげないことにしますわ。」とそう云って軽く吐息をついた。
「何も今からそう謙遜したものでもないでしょう。とよの手紙のような文章は、僕等の時代のものには、誰も書けないんだからなア。実際、個性というようなものが、明治の中期から日本に這入って来て、だんだん人間が機械になって来たので、夢のかけ橋かすみに千鳥なんて、そういう風なものをみんな消してしまった。しかし、とよがまたどこで、そんな文句を覚えたもんだか。大宮人の感懐が、一番山の奥の田舎者にしみ込んで残っていたんだから、凄いですよ。ね。」
 僕らは負けた、という意味をこめ矢代は千鶴子を顧みて笑った。沼の小径に円く並んだ紫陽花の莟がほんのり色をつけていて、躑躅も朱色を水際に映している。矢代は対岸のなまめいた赤松の肌を見上げながら、この公園がまだ大名屋敷だったそのころのことを思い描いた。そして、蒔絵の文箱を持った奥女中が矢立に帯を結び、水際の睡蓮の傍でそっと蓋を抜いてみている、その手紙の中の文章を想像した。それはおそらく、とよの手紙のように韻をふくんだ、鳴り出すような人間味豊かな手紙だったにちがいないと思った。それに今はどうだろう、自分にしても婚約のあいだの千鶴子に示す手紙に、光線の原理など書かねばいられぬ時代になっているのだった。そう思うと、とよの手紙に笑い転げたと同様に、自分の手紙にもそれ以上のおかしなものもあるのだろう。しかし、そのためようやく二人の離れようとする危機を先ず一応は喰いとめ得たのであれば、もう情熱の美しさだけでは人心を捉え得ぬ、非人間的な、多くの希望が人を寸断しかかっているのだとも思った。そして、みな人はそれぞれ何らかの意味で科学的になって行く。
「この公園をこうして見ていても、これからの世の中は、人間的なものと、非人間的なものとの和解になってゆくんだということが、つくづく感じられるなア。今日は結納の品定めに行くんだけれども、僕とあなたも、その放れた二つのものを一つに結びつけて行くようにしたいものだが、――夢のかけ橋だ。思いかなわぬ身なれども、という憂愁は、もう誰にでもある。」
 矢代は傍に千鶴子のいることも、このときはもう忘れふとそう云って笑った。そして、千鶴子の片腕を一寸自分の腕へ組みとってみて、ぴたぴたと彼女の手の甲を片手で叩いた。いつかピエールがそこへ接吻したことがあるというその手の甲だった。千鶴子の靨もいつもより動かず、
「でもあたし何んだかしら、まだ恐いの。ほんとにいいのかしらと思うの。」
 白足袋の下で舞いつづけている一匹の水すましの波紋を眺め、そういう声もうつろに響いた。
「どういうところが恐いのです。」
「何ぜだか分らないのよ。でも、恐いわやっぱり。」
「とよのようには、いかないものかな。」
 矢代は何気なくそう云ったものの、しかし、今の場合に恐いという千鶴子の感情は、間違いのない正直なことだと思った。今の彼女には、恐くないより恐れるのも美しいことだった。またそうであってこそ、彼には頼りになり得られる清純なものも感じられた。
「あたし、そのおとよさんという方に、一度会ってみたいわ。」
「結婚式には来るなと云っても、飛んで来ますよ。」
「あなたは本当は、おとよさんのようなそんな方、お好きなのね。」
 千鶴子はパラソルの柄を頬にあてがい、愁い気に矢代を盗み見て云った。
「好きとか嫌いとかいうものじゃないですよ。とよのような人物が、日本というものの底にいっぱいいるんですからね。そんな律義な、誠実な大群が、島いっぱいに詰っているんだと思うと、その上に桜の花が散って来れば、もう文句はないじゃないですか。女の人はどこの国の人よりも貞淑で、美人だし、食物は沢山だし、景色は美しいし、退屈しない程度に四季の変化は充分だし。何を男は苦しんでるんだか、分らないな僕には。」矢代は今日は、こうして先日以来の千鶴子に与えた悲しみを少しでも慰めたくて、いつもよりよく饒舌る努力も怠らないのであった。また今日の自分のいうことも、みな一種の歌に似ており、どことなくとよの手紙
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