矢代と千鶴子が東野の宅へ行ってからは、東野は千鶴子の兄の由吉としばしば会った様子だった。その度びに、自然に矢代と千鶴子の縁談も、勝手にこの二人の粋人の手の中で進められた。その間には、真紀子や塩野もともに加わっていることも想像されたが、一方その勢いに巻きこまれて、塩野の縁談まで一緒に押し進められている形勢があった。
 結納品のことなどは、矢代は母と相談の結果、東野に一任することとした。千鶴子の家の方も同様の意向で、日を決めて、東野は両家へ出かけて来ることにもなった。
 嫩葉はよくほぐれて伸びて来ていた。矢代は千鶴子に手紙を出してから、暫くの問を隔いたある日の午後、彼女と、また松濤の公園で東野の宅へ行く前に待ち合せた。二人が公園の木椅子に並んだとき、暫らくはどちらも手紙の内容に関しては触れようとしなかった。睡蓮の新芽がまだ巻葉のまま水面に突き立っている他は、園内の木の葉は黄色を滲ませて美しかった。幾らか面窶れを見せた千鶴子の頬の細さが、日ごろよりも鹿に似て見える唇に、薄紅をつけているのも、木の葉の裏まですき透った日射しに湿れて映え鮮やかだった。
「眠れないって、まだですか。」
 矢代は千鶴子の手紙の中の不眠のことを思い出し、それもそうあろうかと、むしろその方が彼女の篤実ささえそこに感じて同情した。
「このごろはいいんですの。」
 胸の底ふかくからようやく出て来たような、ぼんやりした千鶴子の声だった。そのうち、手紙から受けた痛みの脱落してゆくものに代り、何か、再び満ちゆく明るいものもあろう、という意味のことを矢代は云いたかったが、今はなおそのまま、自然な心の姿にしておきたく思った。時計を見ると時間はまだ早かった。東野と一緒に三越へ行って、結納の品を三人で整えるこの日の訪問だったので、今から彼の宅へ上り込むよりも少しここで時間を費したかった。もともと三越へ品定めに出かけることを云い出したのは真紀子にちがいなかったから、東野邸へは、真紀子は誰より早く来ていそうにも想像された。
「しばらく見ぬ間に、この五月というのは、自然の変化が素晴しく迅いなア。」
 滑らかな榎の肌から噴き湧くように、点点とした新芽は鮫小紋に似ていた。気体の含んだ水気が嫩葉の裏にまでしみこもっていて、しなやかな葉脈が葉の重さを耐え支え、静謐な湿りの重なりあう隙間にまで、日の光が充ち跳ね返っていた。矢代はそこから矢のように沼の水面へ射し透っている光の縞を眺め、ふとむかしのある時代を思い出すのだった。それは奈良朝から平安前期へかけてのころだったが、そのときも、日の光はこんなに縞を作り、嫩葉の色もこのように柔かだったにちがいないと思った。そして、唐から帰って来た留学生たちの多くも、結婚の際に、ちょうど今の自分のように、いにしえを想い、今を憶いし、追い迫って来る仏の思想から※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]れ脱する労苦も繰り返し、妻となる婦人を仏の手から奪い取ろうとしたことだろう。
「僕はいま自分の部屋を直させているんですがね。この大工の細君は、とよといってずっと前に僕んとこにいた女中なんですよ。郷里が僕の母と同じなものだから、何かというと、今も僕んところへ来てくれるんだが、このとよが昨日も来て、僕たち大笑いしちゃった。」
 矢代はこう云ってからとよの話を少ししてみた。矢代の母が雨もれのする家の壊れた部分を直したく、ある日とよの主人を手紙で呼んだ。手紙の着いたその日は折悪くとよの子供が自動車に撥ね飛ばされて即死した日だった。それにも拘らず母へ返事をその日に書いてくれたりしたとよの律義なことを云って、こういうことが外国から帰って以来、つよく印象に残るようになったと彼は話した。それも特に傑出した婦人ではなく、日ごろも凡婦で無教養だが、結婚してから良人が字を習わせてくれたことが何よりとよには有り難いと見え、来る度びに矢代の前で良人を他人のように賞め、感謝した。このとよがまだ結婚もせず、読み書きの出来ない日のころ、あるとき矢代の妹の幸子に手紙の代筆を頼んだことがあった。それは矢代たち一家のものには分らぬ郷里の男へ出す手紙だったので、幸子は代筆するにも困った。一二行気候の挨拶を書いてから、「何んと書くの。」ととよに訊ねると、とよは顔も赧らめずにペンを動かそうとする幸子の上へ、肥った熱い身を冠せるように乗りだした。そして、臆する様子もなくいきなり、
「夢のかけはし霞みにちどり思いかなわぬ身なれども――」
 と、こんな調子ですらすら云い出した。それも大真面目で、男に捧げるあらん限りの愛情のその烈しさに、もう幸子は笑ころげ、とうとう手紙は駄目になった。
 この話を矢代がここまで千鶴子にすると、千鶴子も腰を前に折り曲げて笑った。
「しかし、今はもう、とよもなかなか字が上手にな
前へ 次へ
全293ページ中258ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング