たことについては、千鶴子に手紙を書かなかった。前にも千鶴子には、母の承諾を得ることの難事ではない理由を、彼も公言したことがあって、その自信に間違いなく事情は進展して来たのだが、しかし、それはあくまで自分の方の内実を一応確かめておいたまでのことだった。まだ千鶴子の家の方の確かな内諾もないときに、ひとり急いでは、失敗のときの自分の責め苦を引き受ける心算でいても、そのため母にまで与える苦痛を思い、矢代は手綱をひき緊めてかかりたかった。相手は千鶴子ではなく彼女の母である。いつどのような理由でぐるりと変るかもしれない不安な部分が、まだ相当に色濃く矢代には映っていた。もし千鶴子に手紙を書くとしたら、先ず慶びとともに何よりその不安さを無遠慮に書きたかった。
しかし、ここに一つ彼に手紙を書き渋らすことが起って来ていた。それはやはり一応懸念のことで、千鶴子がカソリックだということだった。今さら彼女がカソリックだという理由で結婚をためらっているのではなかった。自分も日本人であるからは、今はそのような他国の宗教のことなど躊躇することもなく、這入って来たものである以上素直に自分の中なるものの一つとして、これを眺め、改め直してもみたい興味もつよく、その勇気もまた感じた。しかし、もし千鶴子が何かの弾みにカソリックの宗麟に滅ぼされた矢代家の特殊な歴史を知り、反対に母が千鶴子のそのカソリックを知ったときの、ある恐慌を予想すると、今からそれを告げ知らせて置くべきか否かに躊躇せざるを得なかった。たといそれは杞憂にしかすぎぬとしても、もし今かりにその事実を明瞭に話すとすると、この結婚は纏るよりも崩れる可能性の方が強かった。
矢代は、結婚という神聖なものの際に、そんな破談となるべき性質の介在するのを承知で、千鶴子と母との両方にその部分を隠匿して置く自分の不潔さが赦しがたかった。彼は母からの許可をそのまま千鶴子に書きかけてみても、いつもペンを投げ出させるのはその感情だった。自分の得た生の預り知らぬ遠いむかしに起ったことが、今ごろになりむくむく起き上って来て手紙を書きかける彼の腕をぴたりと抑えるのである。彼はそれを何か先祖の霊が二人に故障を起さしめない警告のためか、それともこの結婚は頷きがたいという意味かと、そんなことまで考えてはまたペンを持ちかけたが、やはり駄目だった。それも、妄想を押し沈めれば沈めるほど、遠くから瞶めている一条の透明な眼が冴え迫って来るのだった。
「嘘をいって見よ、砕いてみせるぞ。」
と眼は云いかけて来る。
「しかし、真実さえも私はまだ書きませぬ。ましてや嘘など申そうとは。」
と彼は答える。しかし、こういうことを答えるときでも、彼を瞶めている遠方のその眼の在りかは、矢代の家の城の滅んだ年ごろの遠さからではないように思われた。それはなおはるかに遠くからで、彼の記憶に溜った歴史の外遠くから射し透って来ている霊に似た、光りか波か分りがたい、時そのもののような澄み徹った静寂な眼であった。父の葬をすませた夜夢に見た父が、寝せても寝せても半身を起して来て、じっとどこかを瞶めていた遠方も、やはり今彼に顕われて来ている眼の方向と同じように思われるのであった。すべて物事の起るということは、そういう遠方のところから射し起って来ると思う近ごろの彼には、何か判断を要する切羽つまった場合に、彼の視線の自然に対う方向もまたそちらだった。それはこの世の外であったが、またこの世の中にあった。随って、このような眼を感じるときの矢代には、千鶴子のカソリックも母の仏教もともに彼から意味を失い、溶け混じた空なるものに見える習慣だった。
矢代は千鶴子に出す手紙には、自分のそのように見えて来ている空というものの考えも、よく彼女に分る風に書き込んでみたかった。
「こちらで起ったことは、みんな間違いだなんて、そんなこと、――あなたがいつもそんなことを思ってらしたのが、何んだかしら、いやアな気持ちよ。」
パリで別れる際にそう千鶴子の云った言葉に対して、矢代が返事を与えねばならぬのも、彼はこの手紙の中で書くことが適当だと思った。すべて外国で起ったことの締め括りは、自分の国に戻りついてからにしたいと思ったあのときのことなど、それもやはり帰って来てみて間違いではなかったと今彼は思うのであった。
矢代は結局千鶴子に手紙を書いた。それには、さまざまな自分の考えを述べた中に、キリストのようには自分のいのちを怨みに思ってはならぬということ、そして、もしキリストが日本に生れていたなら、もっとも科学的に考えた場合、高山彦九郎の位置にいたと思うということを忘れずに附けてから、最後にこう書いた。
「僕は自分の家の悲劇に関しましては、初めはあなたに云いたくはないと思いました。しかし、あなたも一度は僕とともに、
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