だった。
「蝶二つ一途に飛ばん波もがな、――いいなア」と彼は蟠って来た思いを吹き消すようにそう云って、自分たちの飛び立つ海の明るさ波の広さを眼に泛べ、傍の千鶴子にもともに並び立って飛ぶ翅の用意を命じたくなった。間もなく千鶴子も彼の喜びを察したものと見えて居ずまいを正した。そのうち鍋もまた次第によく煮えて来た。矢代は千鶴子が強いて居ずまいを正したのではないことを心ひそかに希った。そして、早く一切の濁りを二人の間から取り払いたい気持ちでいっぱいになるのだった。


 花の散った後の桜は葉の貧しさが急に目立った。薄紅い萼に鬚のようにのび残った雌蕋に、日の射しているのも、花あとの疲れがほの見え佗しい春の深まりになって来た。通りすがりの御用聞きが懐から目薬を出して、一寸眼に薬を落して去って行く後姿を矢代は眺め、やがて葉桜に変ろうとする前の葉越しの季節は、いいがたい寂さの含みあるものだと思った。
 彼は千鶴子との結婚のことを母に云い出すのを、寝る前の静かな時を選びたいと思い、この日は朝から夜の来るのを待っていたのだったが、日の落ちそうに傾いて来た今となっても、さてそれを云い出すときのことを思うと、不思議なほど羞かしさを感じてつい怯んだ。ほんの一言で良さそうに思えるその瞬間が、どうしてこんなに羞しく感じるものか、彼はわれながら意気地のなさに呆れ、夕暮の迫って来た自宅の傍の小路をひとり廻り歩いてみた。心の落ちつきを計ってみたり、新芽をち切り歯で咬み砕いたりしながら、同じ道を幾度も歩いては、千鶴子もこのような気羞しさを押し切っていったものだろうかと、今さら女性の勇敢さに彼は感心するのだった。そのうち、桜の葩のあたりの路上を白く浮き染めている所まで来たとき、
「ほうッ。」
 と、彼は初めてそう呟いて立ち停った。透明な薄明の迫って来る冷たい底から、眼に沁みこもる葩の白さに彼は急に結婚のことも忘れた。それは世にも見事な、思いがけない美しい世界だった。まだ人にも踏まれていない、点点とした鹿の子斑な路の上は、埃もなく少し湿り気を帯びた柔かさで、見れば見るほど、いちめん葩を滲ませていた。
「これはどうだ。縁起がいいぞ。」と彼はまた呟いた。薄雪のように鮮やかな路はまだどこまでも続いていた。下から射す明るさに眼も落ちそうになり、定めようのない焦点の散乱した思いで矢代は坂を下っていった。坂の下に川があり、そこも桜の吹きこぼれた草の間を水が流れていた。巻き下って来る厚い泡の中には、桜を集めた塊りが浮んでいて、瀬の落ち込む水流に撥ねられ、花の団塊は熄む間もなくぐるぐる白い圏を描いていた。
 矢代は木橋の袂によって水面を見降しているとき、三十を二つ三つ過ぎた主婦が、片手に重い包みを携げ、片方で生れて日数のたたぬ赤ん坊を抱いて通っていった。着ぶくれた赤ん坊は母親の両腕から爆けそうにかさ張っていて、厚ぼったい綿入れのおくるみの襟が歩く度びに拡がった。別に取り立てた光景ではなかったが、見ていると、唇のようなその厚い友禅のおくるみが拡がるので、母親の眼が邪魔され、彼女は立ち停ると襟を口で啣え引きよせてはまた歩いた。その様子は、餌を啄んで来た親鳥が子鳥に物をふくませている必死の籠った恰好に見えて、矢代は暫くその母親の姿から眼が放せなかった。
 いつもの時ならともかく、夜になれば千鶴子のことを母に云い出そうと決めていたときだけに、親鳥のその姿は、自分の知らぬ部分の母の労苦に見えて胸を衝くものがあった。しかし、今彼は、そのような光景から特殊な意義を見つけたい気持にはならなかった。むしろ、今は自分もまだおくるみの中にいる児と別に違わぬように思われて、駄駄をもこねかねない自分になりそうな気もされると、いつまでたっても、子は子のようなことより考えられぬものだと思うばかりだった。理窟だけは一通り云うことが出来ても、母にはもう言葉など一切無用のものに見えて胸も透り、感謝の念も昂まって来るのだった。森の梢に風が立った。そして、夕日が校舎のガラスを射ながら沈んでゆくのを見おさめてから、矢代は家の方へ引き返した。出て来るときは、気重く充実した気持ちで坂を下ったのも、帰りはもう一度少年のころの駄駄を繰り返すような気軽さで家へも這入れた。家では夕食の用意が出来ていた。
 食事をすませてから湯に入り、お茶どきに母の呼ぶ習慣の時間の来るのを書斎で待っている間も、彼は、初めに母に云い出す言葉を一寸考えてみた。しかし、ひとり考えた通りの切り出し方は出来そうにも思えず、そのときの成りゆきに任せ自然に唇が動くままにしたいと思って彼は気を沈めるのだった。
 間もなく階下から母と幸子の話し声が聞えて来た。話は猫を病的に愛する癖のある隣家のことで、話のひまひまに幸子の笑い声が暢気に高くつづいていた。婦人ばかりの隣家には
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