叩いて笑ったきりで、すぐ千鶴子に対い、
「まだ覚えていてくれましたかね。」
 と軽くからかった。平尾男爵は堂堂とした体躯に幾らか疲れを見せた背を丸め、温和な口もとに挟んだ煙草に火も点けず、田辺侯爵と立話をしながらも、自分の乗り捨てた船をときどき眺めては別れを惜む風だった。あちらやこちらで、未知なものらの紹介や、挨拶がひときり済んだと思われる適当なころ合いに、
「さア、ここでこうしていても始らないから、ともかくホテルまで行こうじゃないかね。」
 と由吉は云って皆の先に立って歩き出した。人人の渦は崩れて彼の後から階段を降り始めたが、その途中でも、帰朝者から報道洩れのスペインの内乱に関する新しい話を、誰も一番に聞きたがった。平尾男爵はイギリスの新聞や噂から拾った各国の武器の注入状況とか、スペイン人自身の、二階と階下に別れた兄弟同士の銃で撃ち合う物凄い有様とかを、問われるままに語っていた。
「とにかく、あれは世界戦争の始まりだよ。もう戦争は起っている。対岸の火事じゃないよ。」
 こう横から一口云ったのは東野だった。そして、彼はその後の言葉を強い調子でまた云った。
「ヨーロッパももう底を突いた。今度こそはいよいよ東洋の海嘯《つなみ》だよ。僕らはうろうろしているときじゃない。」
 興奮の去りかねた言葉だと分っていても、一同は東野に語を継ぐことも出来ずばったり黙ってしまったまま、一種異様なショックでそれぞれ下のタクシに乗り込んだ。
「久慈はどうしました。無事ですか。」と矢代は東野の横に乗ってから訊ねた。
「ああ、あれはまだ子供で困ったものだ、パリで逍遙していたよ。」
 逍遙を子供の小さい用と訊いたものか塩野は突然おかしそうに笑い出した。東野はそれには少し困った表情になりかかったがすぐ加えた。
「しかし、僕はあの人ほどフランスを愛することの出来る人がいるんだと思うと、フランスが羨ましくなったね。僕はあの三分の一でも日本を愛してくれればなアと思ったが、愛というものは、こ奴はどうしょうもないものだ。そういうところがもしフランスにあるのなら、フランスだって少しは日本を愛してくれるだろうと、このごろ思い直しているんだが。――実際そうだよ。日本にラフカディオ・ヘルンがいたために、どんなに僕ら日本人はギリシア人に感謝したか思って見給え。」そして、東野は篠懸の街路樹の芽を噴き出している色を見ると
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