困ったことだ。」と矢代は母を省みて笑った。
「お前は今日は、百姓したそうだね。」と突然父は訊ねた。
「どうも先祖のしたことも知らずにいちゃ、罰があたると思ったもんですから、一寸真似をしただけですよ。しかし、あれは気持ちの良いもんですね。こんなことも忘れていて、何を今まで考えていたんだろうと、今日は少少後悔しましたよ。それはそうと、僕の家の一番古い先祖の名は、分ってる範囲ではどういうところですか。」
「藤原基経だ。わしの親父は、子供のころそう云うていつも聞かしてくれたが、嘘か本当か知らないよ。」
 父の郷里から発行されている郡誌を読み、そこに書かれたこと以外にまだ家の歴史を知らなかった矢代には、基経というその名は初めて聞くことだったので、意外な無作法をしていたように改った気持ちになるのだった。
「藤原基経というと、時平の父のあの基経のことですか。最初の関白の。」
「それはどうだか分らないね。しかし、名前だけはそうだった。」と父はさも興味なさそうな声で答えた。
 しかし、矢代は二度と訊くこともない父の一言の答えのように思われなお胸にその名を呟いた。恐らく祖父も曾祖父も今自分が父からこうして無造作に話されたと同様、いつか機嫌の良いこんなある夜に聞かされたものだろう。そして、基経の名だけは、自分の後から来るものにも、家の続く限り記憶に繰り返され蘇ってゆく代りに、やがて、自分や父の名は忘れ去られるにちがいない。しかし、その中でも、父の残した逢坂山のトンネルだけは、以後これで、基経の名と共に子孫の頭の中から消え去ることはなかろうと思った。
 書院の外の梅の枝に軽く雪の鳴るのが聞えた。母は台所から銚子を持って来たときやはり雪だと二人に報らせた。
「わしの危かったときは、宇治川の水電だったな。あれを作るときには東洋一だというので元気も大いに出たが、そのときも反対派の技師とわしは喧嘩をして、じゃ、やるが良かろうと向うのままにしてみたら、とうとうそこから崩れた。そこで大ぶ生埋めにされたが、崩れはわしの足もとまで来て止った代りに、成田のお札が真っ二つに割れていたね。はッはッはッ。」
 父一代のほこりか顔は赧く熟し機嫌も一層良さそうだった。しかし、矢代は父から基経の名を聞いたときから、いつとは識れず暗鬱な情緒を次第に強く感じて来ていた。それも基経の子の時平が矢代のもっとも好きな菅原道真を太
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