いう学ぶ方だね。」と由吉はそろそろまた冷やかし始めて笑った。
「それはそうだ。僕は音楽を勉強しにパリへいったんだよ。」
遊部は突嗟にそう答えたものの、しかし、どこか由吉の鋭利なひと突きには応えるものがあったと見え、びくっとした戸迷うものの薄笑いを洩して肉を食べた。
「勉強しに、パリへ行ったものはごろごろしているが、遊びに行ったのは僕と侯爵とたった二人か。これや、ちょっと気味が悪いね。侯爵、何んとか一言いいなさいよ。あなただってロンドンじゃそう道徳派でもなかったんだからなア。」
由吉は黙っている田辺侯爵の方を顧み、誰にも通じぬ笑顔でひとりからからと高く笑った。
「僕は道徳派さ。」と侯爵は一言云ったきりやはり黙って何も云わなかった。
矢代は侯爵夫人の美しい顔色が幾らかさッと動くのを見ると、いつか見たことのある侯爵家の先祖の壮麗な城が一瞬光を揚げて頭に泛んだ。そのとき彼は一寸千鶴子の方を眺めてみたが、千鶴子はにこにこ笑った視線を彼に向けて黙っているきりだった。
葡萄酒に赧らんだ顔が、白い卓布の上から鮮かに顕れて来たころ食事は終った。客たちは隣室へ移っていってそこでまた雑談が始った。矢代はひとり窓の傍に立ち室内の光りを避けて庭をよく見た。中庭からつづいて来ている小松林が中央の所で、島のように盛り上りを見せていて、その水際を洗うように、白砂が箒の波目を揃え入り組んだ柔い線をよせていた。松の先がどれも牡丹刈にされたところや、下の水際に掃きよせられた枯葉の納まりが、大徳寺内の孤蓬庵の系統を引いた庭に見え、矢代はこうしているときにも京都へ早く行きたくなる誘いを感じて来るのだった。
「綺麗なお庭ですことね。」
と、千鶴子は矢代の横へ立って来て云った。
「御馳走を頂戴して、良い庭を見せてもらって、今夜はどうもありがとう。」
「このお二階に良い陶器が沢山あるんですの。あなた御覧になりたければ、お頼みしてみましてよ。」
「それは見たいなア。」と矢代は云った。そして、ガラスに反射した室内の光りを除けるため顔を窓に近づけ、軽く片手でカーテンの天鵞絨を片よせている千鶴子から、彼は初めて、我知らず闘っていた言葉の世界と放れた地道なぬくもりを感じて来た。それはもう物いわずとも通り共同の苦労にも似ている、ひと息ごとのあわれさのようなものだった。彼は暫く皆に背を向け千鶴子と並んで立っている間
前へ
次へ
全585ページ中408ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング