のは、母の実家が法華なものだから、小さいときから南無妙法蓮華経で育ったでしょう。ですから、僕の父の所へ来てからでも、南無阿弥陀仏ではどうしても有難さを呼び醒すことが出来ないらしいので、そこでひとりいつも苦しんだらしいのですよ。実際それは、真面目になればなるほど苦しいにちがいないんだし、そうかといって、良い加減に捨てても置けないことでもあるしして、やはり今でもそこに、何か、父との間でごたごたしているものがありますね。」
「じゃ、あなたはどちらですの。」
 と千鶴子はすかさず訊ねた。
「僕は古神道です。」と彼はここだけ小さな声で云ってから、
「しかし、これは宗教じゃないですよ。神道とも違います。」と云い直した。
「古神道って、何なのかしら、あたし初めて聞いたわ。」
 千鶴子は羞しそうにこれも小声で云うと、微笑を浮べたまま、遠い夕空を見上げていたが、それでもまだ容易に訝しさの去らぬ表情だった。山頂に漂っている明るさはもう空からかき消え、峡間には刻刻暗さが増して来た。そこへ槙三がのそり娯楽室から戻って来ると、氷柱の下った廊下が急に遽ただしくなった。そして、女中たちの火を運ぶ音や、膳を置く音がつづいてして、矢代たちのいる部屋にもその忙しさが廻って来た。
 食事がそれからすぐ始まった。千鶴子は女中代りに男たちの茶碗の世話をしながらも、まだ矢代に云われたことが頭に閊えているらしく、あまり話さなかった。矢代は槙三に多く話を向けるようにして、物理学に関する新しい話題を聞き出すように努めるのだった。
 槙三が物理学の一番困っている新しい仮説の創造ということについて述べ終ったときに、
「ね、槙さん、お話別だけど、あなた古神道って御存知。」
 と千鶴子は横から訊ねた。
「さっきもこの方ね、自分は古神道を信じているんだと仰言るのよ、そのくせ何んのことか仰言らないわ。あなただって知らないでしょう古神道って。」
 槙三はただ黙ってにやにや笑っているきりだった。
「いや、それや、これはむずかしくって、僕だってよく分りませんがね。まア、一切のものの対立ということを認めない、日本人本来の非常に平和な希いだと僕は思うんです。ですから、たとえばキリスト教や仏教のように、他の宗教を排斥するという風な偏見は少しもないのですよ。千鶴子さんなんかの中にもこの古神道は、無論流れているものです。つまり、あまり高級すぎ
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