という字になったという説があるでしょう。まア明日はひとつ、僕も坊さんになりますから。」
「じゃ、あたしたち、明日はお弟子さんなのね。」
と千鶴子は揚物の鮭に箸をつけて笑った。
「いや、それはお好きなように。とにかく、東洋人は理窟を食うよりも、美味いものを食う方が人生倖せだと悟ったのだから、その点西洋人よりは賢いですよ。」
食事の愉しさに矢代も傍の槙三が数学者だということをつい忘れて云った。
「しかし、人間が数というものを発見してしまったからは、もう倖せも倖せではなくなったでしょう。」と槙三は急に学生らしくはっきりした声で矢代を見て笑った。これは失敗ったと矢代は思った。
「つまり、それは抽象の発見だから、そのときから人間不幸の初まりですよ。ギリシアの悲劇の発生だ。」
「じゃ、零を発見したのは印度人ですが、これは何んですかね。抽象ですか。」
数のことに関しては、槙三は云うだけ云わずにいられぬ数学者らしい鋭い口振りになって来た。
「そうそう、零を発見したのは印度が初めだそうですね。数学のことはよく僕は分らないんだが、しかし、不思議なことには、まア話は少し違うが、日本人も大昔には零を発見しているですね。ワという字があるが、あれはアイウエオ五十音字の中じゃ、最後の十番を表す行の頭字でしょう。日本の古代文字のワという字は零ですよ。つまり、輪の丸がワの字で、むすびの十番にこの丸を置いたということには、日本数学の何かがあるとこのごろ思っているのですがね。ところが、ギリシアの数には零という字がない。あれが僕には分らない。零というのは輪で、これはむすびの和なんだが。和がないなんて。」
「僕は日本の古代文字のことは知らないんですが、数学では零というものの観念は、まだ誰にも分らないのですよ。ところが、その零という分らぬ丸の上に、すべての近代文化が乗って花開いていると云うんです。」
と槙三はふとさし俯向いて云ったまま黙ったが、やはり穏かな微笑を泛べていた。
「零がね。不思議だこと。」
千鶴子も少し考えたらしく黙って箸を動かした。
食事を終ったころは風も消え、雪明りの谷に馬の嘶きが厳しく響き透って来た。矢代は欄干から明日の料理の鳥を頼んである家の明りを探した。一軒家の茶店の窓から、通りの雪に射すランプの色が温い平安な感じだった。千鶴子も食事をすましてから矢代の傍へ来た。
「あら、雪
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