所まで下って来たときに、このときは塩野から欅を見上げ先日のバスの女車掌のことを云い出して笑った。人と一緒のときは矢代は、欅に物云いかけたい気持ちはいつもなく冷淡になった代りに、石工の腕の動きだけ特に激しく眼についた。そして、自分もそろそろもう仕事につくことにしようと思ったが、仕事といっても矢代のは整理部だったから、ただ書籍や雑誌の整理をする傍ら雑書を読めばよかったので、いわば彼のは書籍の中の旅をつづけて行くのが仕事というべきようなものだった。矢代はそれを愧じてもいたがまた幸いとも思った。
「どういうものだか君、日本にいなかった間だけ、僕らは日本を知らないのだから、何んとなく考え方に、一般とピントの合わない空洞が出来てそこが困るね。そこをどういうもので埋め合せて良いのか、一寸見当がつかないよ。君もそうだろう。」
 矢代は停留所の白い立札に手をかけ塩野を覗いた。
「どうも僕らはそれが今さら弱点になって来た。」
「僕はこのごろ、皆が何を考えているのか分らなくなったのだよ。何かこちらが云いかけても、これや云いぞこなうだけだと思って、ついやめるんだが、そういうせいか、僕は物が云いたくなると、何ぜだかこの欅に云うようになってね。僕にはこの樹は今は実に大切な樹なんだよ。」
 塩野はちょっと眼の色を変え欅を仰いでいてから、
「なるほどね。天罰があたったと君がここで云ったの、分るよ。――そうだなア。」
 と云いつつなお仰ぎつづけた。矢代もともに眺めていたが、冬枯れた梢の上を流れる断雲に眼を転じたとき、あの結婚した方の妻の千鶴子はいまごろどのあたりを旅していることだろうと、ふとそんなことを思って雲の流れが懐しまれた。唐竹のステッキを握った手首の冷えて来るのに矢代は、まだ自分も目的の遠い旅をつづけている姿だと感じ、バスの来るのを待つのだった。
 二人はその夜両国のある鳥屋へ上った。鳥肌の煮え始めて来たころ、急に思い出したらしく、塩野は今朝の新聞を見たか面白いねと云った。
「いやまだだが何んだ。」
 と訊き返すと、蒋介石が西安で誘拐されたまま生死不明になったということだった。事件は中国のこととはいえ、矢代は身に直接吹きつけて来た突風を覚え、これはいつかは自分の運命に影響して来る何事かだと思ってひやりとした。


 矢代が千鶴子へ病気見舞いの手紙を出してから一週間ほどたって返事が来た。病気は
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