一寸どうかしてるなア。」
 と塩野は云いながら、ズボンのポケットから煙草を探した。しかし、いよいよ千鶴子が来ると分ると、矢代は急に元気が出て思わず饒舌になりかけた。
「それや、君、帰ったばかりだから、どうかしてるのは誰でもですよ。そのうち君だって、どうかなりますからな、用心しないと入院しますよ。」
「ふむ、入院するかな。」
 と塩野は一寸考える風に眼鏡をせり上げた。
「とにかく、入院するしないは別として、必ず妙なものがやって来る。訳の分らぬものが、無茶苦茶に自分を押し倒して、馬乗りになって来る。」
「ふむ、来ますか。」
 塩野は小首をかしげたかと思うと、「はっ」とかすかに声を立てて笑った。二人はバスの停留所の手前まで来てから立ち停った。
 矢代は今までにもここの停留所へ来るごとに、幾度となく仰いだ眼の前の欅の大樹をこのときも自然に仰ぎ、幹が巧みな別れ方で、それぞれ枝となってゆく見事な様子にいつもながら感服した。別れる所へ来て別れるという単純な美しさが、それぞれ別れたまま空を支えつづけている姿が、彼を捉えて放さなかった。
「僕らは天罰を受けてしまった。どう仕様もない。潔く罰を受けて仕舞いましょうよ。」
 何んとなく欅に云いたくて、塩野にそんなに矢代の云っている前へ、方向の違うバスが一台来て停った。欅に風があたり枯葉がどっと一斉に吹きこぼれて来た。バスの女車掌は下へ降りて踏台に片足をかけ、落ちて来る枯葉を仰ぎ見ながら、
「落葉する日か。いやに感傷的だわね、オーライ。」
 と運転手に手を拡げでひらりと舞うような様子でまた中に入った。塩野は去って行くバスを見送りつつくすくす笑い出した。枯葉は笑っている二人の肩口へなお音立てて舞い落ちて来た。


 千鶴子の家から近い場所をというので、矢代たちは、目黒のある料亭を選び、そこからまた塩野が千鶴子に電話で報らせた。このときは千鶴子の他に彼女の兄も来るとのことだった。ここの料亭は大樹に囲まれた暗さの割に、高台にあるため繁みの深さに陰鬱な気がなかった。ある旗本屋敷を改造したということだったが、そのためもあって廊下や間取りも槍を使うに適した広さの半面、書院の清潔さも失わず、苦心の払われた木口や壁など、天井の高すぎる欠点を補って居ごこちも良かった。
「僕は社の用でときどきここへ来たんだが、前にここは僕の知人だったんですよ。」
 矢代は塩野
前へ 次へ
全585ページ中320ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング