立てて坐った。歌の上手な人という註文を出してあったので、その妓生の歌は隣室の酒声を抑え、際立った美しい調子で暫く響いた。妓生の名は忘れたが東京へレコードの吹込みを頼まれて行ってから、帰ってまだ三日にもならぬと話しながら、彼女は何んとなく元気のない、悄然とした様子でチマの皺を摘んでいた。
「東京は初めて行ったの?」
矢代は自分も初めて外国から帰った当夜に、これも初めて東京から帰って来たばかりらしい妓生との巡り合せに興味を感じて訊ねてみた。
「初めてよ、あたしね、東京から京都、大阪と、今度は随分いろいろな所を見て来たわ。でも、神戸があたし一番好きだった。こんな美しい所が世の中にあったのかしらと思って、うっとりしてしまったわ。」
「神戸が?」
矢代は一寸意外な気持ちで訊き返した。
「ええ、神戸にはあたしすっかり感心したわ。ですからあたし、平壌へ帰っても、ここで一生自分が過さなくちゃならないんだと思ったら、もう元気も何も出なくなってしまったの。もう、早くお金を溜めて、田舎へ引き籠って一生暮そうと決心したの。」
妓生の年を訊ねると二十歳だという。高麗《こうらい》文化を伝える二十歳の歌の名手に絶望を与えた神戸に、何がいったいあったのだろうと、矢代はそのとき考えた。ヨーロッパから帰って来た青年の多くの者が、船中から神戸を見て、その貧しさに悲しさがこみ上げ、思わず泣き出すというその港、そして、そこからいま帰って来てひそかに洩らし悲しんだ妓生のこの歎きであった。
「つまり、それぞれみんな自分の故郷の美しさを忘れたのさ。心ないことだよ。」
皆話し終えてから、矢代は幸子を戒めるつもりで言葉も、さして苦しまず自然に出て来たのを一層好都合に感じて云った。
「君も身体が善くなったら、こんな所であぷあぷしてずに一度奈良や京都でも廻って来るんだね。僕もそのうち行くつもりだ。まだ僕の旅行はいよいよこれからが、始まりというところさ。」
さして馬鹿とも思えない幸子には、今の場合の兄の気遣いなど、およそこれほどのところで察しもつくだろうと矢代は思った。それまで海の上を黙って見ていた幸子は、急に立ち上ると彼に背を見せながら、ベニスのショールをかけてみた肩を鏡に映して眺め入った。
「いいわね。これ。早くよくなって、あたしもさっさとどっかへ行ってみたいわ。」
白くギリシア模様を浮き出したショールの向
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