なら、僕が世話するよ。」
「それで安心だ。僕はね、千鶴子さんが嫌いじゃないんだが、今は日本人は君だけで結構なんだ。この上日本人と交際しちゃ、また言葉が日本語に舞い戻ってしまうからな。」
矢代は久慈がパリへ著いて以来、性急に外人らしくなることに専念している様子を見るのは、今に始まったことではなかったが、何となくその心の持ち方が田舎者らしく感じられ、その度びに矢代は久慈に突っかかっていきたくなる自分だと思った。
「君、夕飯にアンリエットを呼んでも良いだろう。今夜は僕が御馳走するからね。」
久慈の云うままに二人はサン・ミシェルまで来ると、左のノートル・ダムを背にしてパンテオンの方へ上っていった。
サン・ミシェルの坂を左に曲った所にイタリア軒という料理屋がある。前から久慈はここの伊太利料理を好んでいたのでこの夜の晩餐もここにした。久慈が途中でアンリエットに電話を通じておいたから、矢代とアッペリティフを飲んでいる間にアンリエットは薄茶のスーツに狐の毛皮を巻いて這入って来た。久慈は彼女に椅子をすすめながら、
「今夜二人で踊りに行こうという約束があるんでね、君、御飯を食べたら、遠慮してくれ給え。」
と矢代に云ってメニューを見た。
「矢代君、君は何にする。またプウレオウリか。アンリエットさん、あなたはよろしく頼みますよ。」
羊の肉の薄焼に雛の肩肉と、フロマージュ付きのスパゲッティ、それにサラダを註文して三人は葡萄酒を飲んだ。ここの料理屋にはポール・フォールという詩人がよく来ているので、料理通には有名だったが、久慈も矢代もまだ一度もその詩人を見たことがなかった。
「君、僕も会話を勉強したいんだが、暇があったらアンリエットさんに、ときどき僕の方へも廻って貰ってくれないかね。」
矢代は久慈とアンリエットとを眺めながら冗談らしく云ってみた。
「いや、それや、駄目だ。この人は今は僕の秘書見たいだからね。いろんなことを験べて貰ってるので、急がしいんだよ。」
「しかし、月謝を払って僕が生徒になりたいと頼むの、何が悪いんだ。」
「それや君のは日本の理窟だよ。ここじゃ、日本の理窟は通らないんだからね、郷に入れば郷に従えってこと、君、知ってるだろう。」
「それや、日本の理窟じゃないか。」と矢代は云って笑った。
「ところが、これだけは万国共通の論理だよ。郷に入れば郷に従うのは当然さ。」
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