しまう。」
 と医者が商務官を見て云った。
「しかし、医者だって仁術という人情があろうからなア。藪医者ならともかくも、非人情じゃ病人こそ災難だ。あなたがドイツへ行かれて勉強して来て、薬の分量をそのまま日本人に使うのですか、危いもんだねそれや。」
「いや、医者はね、死にたくて溜らぬ人間でも、生かさなくちゃならんのだよ。」
 皆この医者の云い方にどっと笑った。
 しかし、一度びこのような話が出ると、意見のあるものもはッと危い一線に辷って来た自分の頭に気がついて黙るのであった。
 何かの職業に従事している教養のある者たちは、自身の教養を示す必要のある機会毎に忘れず言葉を出すものだが、一旦話が自分の職業の危い部分に触れて来ると誰も話中から立って行く。それとはまた別に面白いのは、自分に知性のあることをひそかに誇っていたものたちの顔だった。これらのものは、昨夜で自分の思っていた知性も実は借り物の他人の習慣をほんの少し貸して貰っていただけだと分り始めた顔で、見合す視線も嘲笑のためにひどく楽天的な危い狂いがあった。
 話がぷつりと途絶えたころ、久慈は茶が飲みたくなりボーイを呼ぶために呼鈴を押そうとしたが、ボタンはどこにも見つからなかった。それだあれだと一同の騒いでいるとき、久慈は急に立ち上って、頭の上にぶら下っている鐙形《あぶみがた》の引手を引いてみた。
 すると、間もなく今まで走っていた列車は急に進行を停めてしまった。何ぜ停車したのか分らぬままに一同は窓から外をうろうろしながら覗いていると、車掌が部屋へ這入って来た。久慈は車掌の云うことを聞いていたが、見る間に顔色が変って来た。彼は吃り吃り片手をあげ、
「いやいや、呼鈴がないのでこれを引いてみただけだ。どうも失敬失敬。」
 とフランス語で平謝りに謝罪した。一同ようやく汽車を停めたのは久慈だと分ったらしく、今に一大事が持ち上るぞと云う風に愕然として車掌の顔を眺めて黙っていたが、ここではこんなことは日常のことと見え、久慈の弁明を聞いていた車掌も意外にあっさりとそのまま廊下へ出ていった。
「あなたも豪いもんだな、国際列車を停めたんだから、もうこれで日本へ帰ったって威張れたもんだよ。」
 と医者が云った。皆の青くなっているうちに、また汽車は無造作に走り出した。
 ローヌ河が細い流れとなり、牧場が森となってつづいて行って、だんだん夕暮が迫っ
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