ヌの前のベンチにいるから来てほしいと書いてあった。
朝昼を兼ねたコーヒーを飲んでいると千鶴子が約束の通りに来た。いつもより瞼の脹れぼったく見えるのが新鮮な感じだった。長い廻り階段を昇って来たばかりで呼吸を大きく肩に波打たせながら、黙ってずっと窓の欄干の傍へよって来ると、何ぜかやはり黙って千鶴子は久慈を見なかった。
「昨夜は飛んだ眼に会せて失礼、君、お昼は?」
千鶴子はもうすませて来たと云って前の建築学校の屋根の上を眺めていた。昼間だと男の部屋へ来るのも何んの怖れもないくせに、夜中だと一室に男といるのがあんなに不安になるものかと久慈は思い、昨日のような出来事の総てもあれは夜のせいだったからだと、何かそんなことが今さら結論めいて来るのだった。
「真紀子さんいらしって?」
「来たらしいんだが、眠ってたもんだから紙きれ置いて帰っていった。ベルレーヌの前のベンチにお昼からいるって書いてあるから、これから行って来なくちゃ。」
「そして、あなたどうなさるおつもりなの?」
浮唐草の水色の欄干を背に千鶴子は唇の跳ねた皮肉な笑顔だった。
「しようがない。不善を改むこと能わざるは、是れわが憂いなりだ。論語をこれから講義しに行こうてんだ。」
「でも、あなた嬉しそうね何んだか。」
「今日起きてみたら、心境に少し変化が起ったんだね。昨夜は君を見なくちゃどうにもやりきれなくなったんだが――たしかに昨夜は君に僕は恋愛をしたんだ。君んとこの階段を上る前に、広場のベンチに腰かけて窓を暫く眺めてただけなんだよ。ところが、そのうちに胸がそわそわして来てね、これはいかんと思っているうちに、もう階段を上っていったんだ。ところが今朝になってみると、何アに、そうでもないんだよ。けろりとしてこの通りだ。危機だなアこれや。」
パンをち切りながら暢気そうに云う久慈を、千鶴子は心細そうな眼で眺めていてから、
「じゃ、あたしも危機だったのね。」
と云ってくるりとまた欄干に肱をつき窓から下を覗き変えた。
「いや、いろいろ理解に苦しむことが多いよ。これをいちいち説明して歩かなくちゃならんというのは、たしかに健全じゃない。君だって今日は僕を慰めに来てくれたんでしょう。」
「そうよ。だって夜中にひとりでいらっしゃるなんて、理解に苦しむわ。ドアなんか開けちゃいけないと思ったんだけど、何んか急用でも出来たんだと思ったのよ。ほ
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