しだが、ただ困ったときには困った工夫が僕にあったって、そんなことまで悪い筈があるものか。じゃ帰ろう。また会いますよ。」
 久慈は立ち上って千鶴子に手をさし出した。千鶴子は軽く久慈の手に触れ快活な声で、
「明日お昼ごろお邪魔しましてよ。」
 と云うと彼の後からドアを閉めた。早く明けるパリの夜がそろそろ白みかかって来た。久慈は自分のホテルの方へ歩きながら、さっぱり洗われたように気持ちが穏やかになって来るのを感じた。
「何んだか俺は云って来たが、しかし、俺の悩んでいるのは女のことじゃない。お袋に代るものがほしいのだ。ただそれだけだ。俺の云ったことはみなどうだって、あれはもういい。」
 久慈はそう思うと真紀子も千鶴子も暫くは想いの中から飛び去って、頭の振動を算えるように響く靴の音だけ耳に聞えて来た。


 久慈は正午近く眼を醒した。顔を洗いながら昨夜の出来事を思い出してみても、昨日と今日とは日が違うごとく何んの怖れの実感も感じなかった。歯磨楊子を啣え窓から通りを見降ろす眼に日光が強く射した。こんな天気の良い日にもし悩んでいるものがあるならそれは全く気の毒だと思い、昨夜はそれが自分だったのかと思うと、数時間の睡眠で人生はこんなに変るものかと驚くのだった。隣室のルーマニアの娘が小声で唄を歌っているのも恐らく何か歓びがあるからにちがいない。
「われ三十路半ばにして道に踏み迷う。」
 久慈はときどきダンテの悩んだそんな言葉も口にのぼって来た。しかし、自分にもし今日の悩みがあるとすると、真紀子にほんの少し事実を狂わせて嘘をつけば良いことだけだと思った。それも名医のように嘘を上手くつけばつくほどどちらも幸福になるのである。もし千鶴子に話したように本当のことをうち明ければ、真紀子に打撃を与えることは、あるいは計り知れぬかもしれない。それなら何ぜ嘘が悪いのだ。――
 久慈はそう思いながらも、しかし、自分は今日は本当ばかりを一つ真紀子に云ってみよう、そして、嘘を云うのと同じ程度に二人が前より一層気楽になってみようと思うと、それがまた今日一日の楽しみになって来るのだった。
 服を着替えコーヒーを※[#「口+云」、第3水準1−14−87]咐けたときドアの下に一枚差してある紙片を彼は見つけた。取り上げて読むとそれは真紀子でもう眠っているときに来たらしく、正午すぎ一時間ばかりルクサンブールのベルレー
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