しらと、瞬間矢代と千鶴子のチロルの夜夜のことを考え、あるいはこの矢代は嘘をついているのかもしれぬと疑いさえ起って来た。
「沖さん、矢代はね、なかなかこ奴不良にならんのですよ。あなた意見をしてやって下さいよ。嘘つきだこ奴。」
 久慈はナイフで矢代の胸を指しながら云った。
「あなた、外国へ来て不良にならんのですか。そ奴も少し不衛生だなア。」
 沖はナフキンで口を拭きながら珍しげに矢代を見て笑った。矢代はいつもの癖で男女のことを云われると一言も云わず、顔を赧らめたままただ黙っているだけだった。
「しかし、何んです。こっちへ来ると思うたよりも興味はなくなりますな。殺風景で面白うない。そうそう私は昨夕面白い青年に会いましたよ。どっか踊場へ連れて行けと云うたら、切符制度の踊場へ引っぱって行って踊っているうち、ああ驚いたと云って席へ戻って来て、こう云うんですよ。今自分と踊っていたあの踊子は、あれは自分が二年前に同棲していた女だと云うのです。ところが、その女とその晩三度も踊っていて、まだ昔の女だとは気が附かなかったんですね。二度目に女がにっこり笑うもんだから、妙な笑い方をする女だと思っていると、三度目に、あなた忘れたのと云うたというのです。もうみんな、頭が妙な風になっとりますよ。不良のどうのと云ったところで、不良ならまだ良い方じゃ。この青年は二十五六で、まア日本人の五十か六十の男の経験をしてしまっとるですな。あのまま人間が五十か六十になったら、そら恐ろしいことになりますぜ。」
 度の強い眼鏡の底から光る沖の話に聞き手たちは笑ったり黙ったりしているうちに、次第に身動き出来ぬ世界の中へ頭を落し込んでいって暫く何も云わなかった。
「そうすると、僕らは強味だ。まだ若いぞ。」
 と久慈は思いの底を蹴りつけて吠え上るように云った。
「そうそう。あなた方はまだ若い。わたしはもうそれが何より羨ましい。」
 印度洋の中ごろで夜毎に若者たちを悩ました沖の青春時代の思い出談の落ちが、今ごろパリのここで、こんなに淋しく終りを告げたのかと思うと、久慈は沖に代り腕を撫す気持ちで自分の中に鳴る若さを頼母しく感じた。
「じゃ沖さん。御遠慮なく明日はノルマンデイで帰って下さい。後は僕たち青年が引受けますよ。」
「君たちが二世になってくれるか、じゃ乾杯、健康を祝します。」
 コップを上げると沖に皆はまた楽しく笑った。
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