証を貰い荷物の検査もすまさねばならぬ。矢代は出て行った香取の行方を見送りつつ、「じゃ、さようなら。」と胸の中で云っているときだった。
 真紀子が良人らしい中年の紳士を連れて来て矢代に云った。
「これ宅でございますの。」
「そうですが、いろいろ船中ではお世話になりました。」
「いや私の方こそ御迷惑をおかけしまして有り難うございました。」
 肩幅のある早坂氏が微笑を含み、鄭重な挨拶の横からまた真紀子が嬉しそうに云った。
「もしウィーンの方へでもいらっしゃることがございましたら、どうぞ、是非いらして下さいましな。」
「ありがとうございます。そのうちに、一度あちらへも廻りたいと思いますから、そのときにはお願いします。」
 どことなく一抹の冷たい表情で早坂氏は礼をすると、妻の荷物の方へ去っていった。後のサロンではパリへ行く船客たちが一団となって、今夜もう一度船へ帰って泊めて貰い、明朝早く揃ってパリへ行こうという相談が一致しかけていた。このような時でも沖氏はいつもの剽軽な調子で、
「そうそう、そうしなさい。今夜はゆっくりマルセーユで遊びましよう。久慈さん、私はあなたを愛しますというのは、フランス語じゃ、どういうんですか。これさえ覚えとけば、もう大丈夫だ。」
 一同が声を揃えて笑うとすでに一団の行動はそれで定められたと同じであった。
「つれしゃるまん。というんです。」とある商務官が洒落て云った。
「つれしゃるまん。つれしゃるまん。」
 と幾度も沖氏は呟いてみていてから、
「マルセーユつれしゃるまん覚えけり、と、これや、どうです。」
 ときどき船中で試みた俳句の手腕を沖氏は早速使ってまた皆を笑わせた。
 荷物も税関もすませてから、何となく遽しいごたごたとした気持ちのまま船客たちは自動車に分乗してマルセーユの街の中へ流れ込んだ。街は税関の門を一歩出ると、早くも敷石の上に積み上っている樽の色から芸術の匂いが立ちこめて襲って来た。車が辷って行くと、立ち並ぶ街路樹が日本の神社仏閣にある巨木と同様に鬱蒼として太かった。まるで街路が公園のようで、両側の石の建物を突き跳ねそうに路いっぱいに枝を拡げた大樹の下を、惜しげもなく車は駆けていく。どこの街か分らなかったが、これが馬車だったら一層良かっただろうと矢代は思った。街路樹の大きさと年を競うように周囲の建物もまた古かった。触ればぼろぼろ崩れそうな灰
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