は少し心配な顔だった。
「日本は右へ行くし、こっちは左か。」
 久慈は頭の後ろで両手を組み椅子の背へ反り返った。お前はどっちだと訊くことだけはいよいよ口へは出せぬが、どちらもの中間などというものは存在しない論理の世界のそのままが、思想となり政治意識となって誰の頭の中をも突き通っている現在である。
「いったい、知識に右でもない左でもない中間が無くなったということは、これやどういうことですかね。この間までは在ったじゃないですか。先日まで在ったものが急に無くなったのですかね。」
 と久慈は東野を叩く気もなく、そのくせ自然にいつの間にか巧妙に叩き始めていくのだった。すると、東野は、
「いや、僕は右でも左でもないよ。」
 と先廻りをして笑って答えた。いつか東野の逃げた手もそれだと久慈は思い、今夜は何んとしても逃がさぬぞと思うと、
「つまり、それはどういうんです。自由主義という奴ですか。」と訊ねた。
「僕は外国から来た抽象名詞というやつは、分析用には使うけれども、人間の生活心理を測る場合には、極力使わない用心をしてるんだよ。それは誤る効果の方が多いからな。あなたは外国製の抽象名詞以外には、知識という概念が成り立たぬと思っていられる風だが、僕はそんなのを、いつかあなたに云ったように、簡便主義の知識だと思っているんですよ。簡便主義でいくなら何もそう苦しまなくたって、簡単に人の教えた方へいっちまえば良いのです。左とか右とかそんなことは問題じゃない。」
「ふむ。」
 と久慈は一応考え込んだ様子だった。しかし、彼は、いよいよ東野は有無を云わせず押しよせて来ているこの現実の思想から、逃げ歩いてばかりいる敗北主義の男だと思っていくばかりだった。
「そうすると、あなたは何んですか、こんなに人間が苦心をして造った、いわばまア知性の体系というようなものまで無視してらっしゃるんですな。論理をつまり無用の長物だと思ってらっしゃるんですな。」
 とふと口を議論に辷らせたら最後、後へ戻せぬ論理ばかりの世界にいるようなパリでの一時期とて、東野は一寸苦苦しい顔をしたが、丁度そのときボーイが二人の傍へ廻って来た。東野は鰈《かれい》と鳥とを註文すると、さア、いよいよ美味くなくなるぞ、と云うようにメニューを投げ出して、
「あなたは?」と久慈に訊ねた。
「僕もそれで結構、いや、一寸鰈はいやだな。スパゲッティ。」
 ボ
前へ 次へ
全585ページ中92ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング