う。』
 と反り返って云うのですよ。僕は腹が立ったが、先ずボーイが何とあしらうかと、それをじっと見ていたら、ボーイがね。――」
 と東野は云ってそのときのボーイがまだいるかと一寸屋内を見廻した。
「今日はあいにくいないけれども、そのボーイが、きっとなると、安南入を指差して、これは東洋人だが、われわれの同胞だ。君ら出て行ってくれッと、その大男に大見得切ったですよ。」
「その男どうしました。」
 と矢代は乗り出すようにして訊ねた。
「その男は黙って出て行きましたが、しかし、一時は日本人が皆殺気立ちましたね。」
「安南人はどうしました。」とまた矢代は興奮して訊ねた。
「安南人はおとなしく黙っていましたよ。」
 一同はしんと静まったまましばらく誰も物を云うものがなかった。
「馬鹿な奴がいると、戦争が起る筈だな。」
 矢代はいまいましそうに云った。そして、突然久慈に向って、
「君、まだ君は、ヨーロッパ主義か。」
「うむ。」
 と久慈は重重しく頷いた。矢代は青ざめたままどしんと背を皮につけて静まると涙が両眼からこぼれ落ちた。


 夜の十一時になると、塩野たちは、これから活動を見に行くのだからと云ってカフェーを出て行った。矢代たちもトウリオンフを出てサンゼリゼを下へ下った。
 硝子の鯉の塊った口から立ち昇っている噴水は、瓦斯灯の青い照明に煌き爆けた花火かと見える。その噴水から散る霧は一町四方に拡がり渡り、微風に方向を変えつつマロニエの花開いた白い森を濡らしていた。
 この森のマロニエの老樹の見事さはまた格別だった。均整のとれた鋼鉄に似た枝枝の繁みが魁麗な花むらの重さを受けとめかねてゆったりと撓み、もう人人の称讃には飽き飽きしたという風情で、後継ぎのない悲しさもあきらめきった高雅な容姿だった。それはもう樹というものではない、人の知らぬ年齢を生き永らえまだ薄紅色の花をほころばせてやまぬ箴言のようなものだった。
 矢代たちは砂道を歩いてコンコルドの広場へ出た。数町に渡った正方形の広場は、鏡の間のように光り輝き森閑として人一人通らなかった。その周囲を取り包んだ数千の瓦斯灯は、声を潜めた無数の眼光から成り立った平面のように寒寒とした森厳さを湛えている。
 そこの八方にある女神の巨像はそれぞれおのれの文化の荘重さに、今は満ち足りて静かに下を見降ろし、風雨に年老いた有様を月と星とにゆだね、お
前へ 次へ
全585ページ中61ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング