れたのに、そんなみずくさいこと申されて――」
「お蔭で都合よく用事もすませてもらいましたし、それに時間もどうやら間に合いますので。」
車夫を待たせた気忙しさに寺への謝礼と、村人たちへの礼心を白紙に包む多忙なためもあって、矢代は調子の合わぬまごまごした挨拶をなおするのだった。
「御先祖さんのおられるところで、一晩もお泊りなさらんのですかのう。」
黙っている老人連の中からまだ老婆だけは心外の意を露わに向けたてかけて来たが、好意を毒舌にして見せる手際も温く、矢代は、答えかねた窮地の底から、ひそかに門の前の車夫に援助を需む有様だった。そして、ようやく、老人たちに背を向けスーツを引きよせると、まだ何か云いかける老婆の方へ向き返って、
「今度はまア、お赦しを願います、この次は家内をつれて来ますから、そのときはゆっくりお礼に上ります。」
と云って笑った。門前まで皆に送られた所で、車に乗ってから、矢代は梶棒の上るまで焔の中から救い上げてくれる手を見るように車夫の動作が待ち遠しく思われた。間もなく車が走り出した。そして、一同を後にひとり山を見上げたとき、彼は初めて、やはりここでも自分は終始旅の客だったと思った。自分にとって故郷はもう東京以外にはなく、そこへ向ってこれで刻刻近づき得られている自分だと思った。日暮の冷たさを含んだ風が山蔭から頬をかすめて来た。苗代の整った峡間の障子が、土臭を吸いとった高雅な風貌に見え、彼はこのときほど障子の白さに心牽かれたことはまだなかった。
「秋十年却つて江戸をさす故郷」
江戸をたって、故郷の伊賀へ帰ろうとしたときに深川で作ったと云われる芭蕉のこんな句を、ふと矢代は思い出したりした。十年も江戸にいると、芭蕉の眼にも逆に江戸が故郷に見えて来たのであろう。と、そう思うと、矢代は異国にいたときに、これでこの地に棲みつけば、そこを故郷と思う人もさぞ多くなることだろうと考えたことも、今また不意に泛んで来たりした。しかし、家を一歩外に出たもので、胸奥に絶えず描きもとめているふるさと、今身を置く郷との間に心を漂わせぬものは、恐らく誰一人もいなかったことだろう。してみれば、その者にとって衣食住は仮の世界、さまよう自分の旅ごころこそ実の世界、と念うもの佗びた心情もあの草の中の障子の白さの中には棲んでしまっていると思った。そのほの白さは、胸奥ふかく沈めた旅の愁いの灯
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