来たのかの。」
 と、こんなことを、ある日近所の娘が妻に訊ねたこともある。久左衛門のことを、闇左衛門と云ったりしたことなどから察しても、おそらく私たちまで怪しげな眼で見られているのかもしれないが、まだ私は特に彼から不愉快な思いをさせられたこともないので、彼を信用するしないは後のことだ。けれども、ここへ来てから一ヵ月、日をへるに随って彼の悪い噂ばかりを耳にする。善いことなど一度も聞いたことはない。農夫にしては稀に鋭い頭脳で、着眼の非凡さは、およそ他の者など絶えず蹌踉《よろ》めかせられて来つづけたことも、想像してあまりある。しかし、そんなことも知れたものだ。
「旅愁って、何のことですかの。」
 と、久左衛門は急にまたそんなことを私に訊ねた。昨夜、私の旅愁が放送せられたそのことを云うのだろうが、ラヂオはこの家だけにあって私は聞いてない。私が黙っていると、また久左衛門は、
「物語、横光利一としてあった。第二放送というのはどうしたら聞けるのか知らんので。」という。
 私は自分の職業を知られたくはなく隠すように努めているが、ときどきこのようなのっぴきならぬ眼にあわされる。あるときも、厠の箱に投げこ
前へ 次へ
全221ページ中106ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング