げに来るのでのう。工賃を米でくれというので、それじゃ、どっちも丸公にしょうというたばかりじゃ。はははは。米を持ってると、何んでも公正価でいけるでのう。」
 私は三間とはへだたぬ久左衛門のこの炉端へ、殆ど来ないので、少からず彼には不服のようだった。彼から私は今いる部屋を世話せられ、私係りは久左衛門だと村のものから思われているのに拘らず、その私が遠ざかっているのだから、彼とて少しは不機嫌にならざるを得なかろう。村のものらの久左衛門に向っている烈しい悪口が、私の耳へも届いていると思っていることには間違いなくとも、そんなことはどうでも良い。私には、道路の傍の彼のこの炉端は人の集りが多いので、自然に足が動かぬだけである。それも集るものに村の有力者が多いので、なおさら私の足は重くなる。
「久左衛門さんにお米のこと頼んでみて下さらない。もううちには無いんですもの。」
 妻は私の出がけにそんなことまで耳打ちしたが、米のことなど私は彼には云いたくない。いや、何一つ久左衛門には私は頼まぬつもりだ。また今までとても、まだ私からは物資のことなど彼に相談した覚えはない。
「お前んとこ、ここの村へ闇左衛門の世話で来たのかの。」
 と、こんなことを、ある日近所の娘が妻に訊ねたこともある。久左衛門のことを、闇左衛門と云ったりしたことなどから察しても、おそらく私たちまで怪しげな眼で見られているのかもしれないが、まだ私は特に彼から不愉快な思いをさせられたこともないので、彼を信用するしないは後のことだ。けれども、ここへ来てから一ヵ月、日をへるに随って彼の悪い噂ばかりを耳にする。善いことなど一度も聞いたことはない。農夫にしては稀に鋭い頭脳で、着眼の非凡さは、およそ他の者など絶えず蹌踉《よろ》めかせられて来つづけたことも、想像してあまりある。しかし、そんなことも知れたものだ。
「旅愁って、何のことですかの。」
 と、久左衛門は急にまたそんなことを私に訊ねた。昨夜、私の旅愁が放送せられたそのことを云うのだろうが、ラヂオはこの家だけにあって私は聞いてない。私が黙っていると、また久左衛門は、
「物語、横光利一としてあった。第二放送というのはどうしたら聞けるのか知らんので。」という。
 私は自分の職業を知られたくはなく隠すように努めているが、ときどきこのようなのっぴきならぬ眼にあわされる。あるときも、厠の箱に投げこまれている古新聞に私の作の大きな活字が眼につき引き破ったことがある。ここでの事ではなく別にあるとき、大阪市中での出来事もふとまた私は思い出したりした。それは堂島の橋の手前で、朝日の前あたりだったが、私が歩いていると、前を大きな箱を積んだリヤカーが走り脱けた。その途端、電車の前部に突きあたり、箱ごと眼の前でリヤカーがぶっ倒れた。あッと思うその瞬間、箱の中から、横光利一集と書いた書籍ばかりが散乱して、電車がごとごとその上を辷っていくのを見たときの呆然とした自分。また汽車の中で空席を見つけたとき、前にいる客が私の著作集を傍目もふらず読んでいる最中だったりしたときのことなど、こういうときの作者の感情は、得意というより悲惨に近いものがある。何ぜだろうか。私は久左衛門の所からも、その夕何の要領も得ず帰って来た。
「どうでしたお米。」と妻は笑顔でよって来て訊ねた。
「米のことは、おれは知らん。気持ちじゃ。」
「そうだと思ったわ。」妻はがっかりした風で、もうあきれたらしい。こういうことのみならず、私はどこか阿呆なところがあって、戦争中はひどく皆を困らせたが、見ていると、私の妻もまたそうだ。
「お前がいえば良いだろう。そんな米のことは、女のすべきことじゃないか。」
「お米のことは、男のするべきことですよ。どこだってそうだわ。」
「そんな男ろくな奴か。」
「だって、Sさんのようなお豪い方でも、自転車でいらしたというじゃありませんか。」
 云うかもしれないな、と私の思っていたことをまたうまく云い出したものだと、私も弱った。S氏は文壇の老大家で私の尊敬している作家だが、その人が知人の若いM君の所へ自転車で米借りに乗りつけられたというリュック姿のことを、M君から聞いた折、私はその直截的な行為に自分を顧みて感服したことがあった。
「闇左衛門とM君とは違うからな。」と私は苦しく云った。
「どうしましょう、ほんとうにもうないわ。」
 米櫃《こめびつ》の蓋をとって枡《ます》で計ってみている妻の手つきがかたかた寒い音を立てている。私は一日に四杯、他のものは十杯ずつ三人、併せて一升と少しで足りるのに、私のいる家の参右衛門の所では同数の家族だのに四升でまだ足りぬ。私はいつか一日四杯だと話すと、「ふうッ。」と呼吸を吐いた参右衛門、じろじろ私の顔を眺めていてから、「人じゃないの。」と云ったことがある。
 とこ
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