「しかし、あれを辛抱し通せるような人なら、女としてはまア八十点だ。」
「でも、そんなことぐらい……」
「お前は亭主を尻にしく傾向があるから、ひょっとすると出来るかもしれないなア。しかし、男にとって何が辛いと云って、阿母《おふくろ》と細君とに啀《いが》み合われるほど辛いことはないものだ。あれは鋸の歯の間で寝ているようなものだよ。お前の苦労なんてものは、僕が毎日傍にいることぐらいなもんじゃないか。」
「ほんと、あたしはあなたがどこかへお勤めしていて下されば、どんなにいいかしらと思うわ。もう毎日毎日、傍にいられる苦労には、あたし、それを思うと、もうぞっとしてくるの。疲れるのよそれはそれは。」妻のいつもの歎きが始まったのだ。
 ここから見える隣家の宗左衛門のあばの家では、長男が結婚した翌日出征して、嫁が義母と一緒に今もいるが、夫婦はただの一日一緒にいたきりである。私の妻も同時にそれを思い出したと見えて、
「あそこでは、たった一日よ御一緒。どうでしょう。」と一寸首を縮めて私を見た。
 私は戦争中のある日、銀座のある洋食店で夕食を摂ろうとして、料理の出るまで一人ぼんやり壁を見ていたひとときの事をふと思い出した。壁にはミレーの晩鐘の版画がかかっていた。私は日ごろからこのバルビゾン派の画類には一度も感動を覚えたことがなかったに拘らず、野末の向うに見える寺院の尖塔を背景に、黙祷をささげている若い夫婦の農衣姿の慎しやかな美しさに、突然われを忘れた感動を覚えたことがあった。私は自分の生活して来た記憶の絵の中から、これと似たことがどこにあったかと考えてみたが、暫くは、容易に私には泛ばなかった。しかし、何ぜまたこれほどの簡単な幸福と清浄さが私にも人にも得られないのだろうか。何の特殊な難しさでもないものをと私はそのとき考え込んだ。良い宗教がないからか。自分らそれぞれの不心得のためからか。それとも世の中というものの成立が悪いからというべきか。おそらくそんなことではないだろう。いま、一寸首を縮めて私を見た妻の眼差は、実は、そういう幸福に似たものではなかったろうか。
 人は幸福の海の上に浮いている舟のようで、腹だけ水につけ、頭を水から上げているから、無常の風に面を打たれて漂うのかもしれないと思った。

 十月――日
 別家の久左衛門の長男の嫁は、四つになる一粒種の男の子をこの五月に亡くして以来、次ぎがまだ産れそうな気配がないので、もう爺さん夫婦から睨まれている。いつ離縁になるか分らぬ不安ながらも、このごろは嫁もよほど覚悟が定って来たらしい働きぶりだ。ところが、本家のここの参右衛門の家では、樺太出征中の長男の帰りがいまだに分らぬので、嫁は実家へ帰りきりである。夜だけ寝にここへ戻って来るときの、その嫁の大切にされることは女王のごときものだが、いつ嫁に去られるものか気配も相当に不安な模様に、参右衛門夫婦のひそひそ話もいつもここへ落ちて来る。静な気立の良い嫁であっても、まだ実家の云うままに動く娘のままで、村で二番の裕福なその家から、一番の貧農のこの家の嫁になっている現在の情況から想像すると、参右衛門の不在の長男は稀に見る立派な青年らしい。「あそこの長男は豪い。あんなの一人もいない。」と村のものらはいう。
 応召の際、父に頼んで、毎夜その日の支出費だけ必ずつけてくれと、云い残しただけだとの事である。酒で家を潰した父に対する釘としては、もっとも確実な打ち方だ。
 青柿が枝のまま風に騒いでいる。夕映えの流れた平野の上を走る雲足に木立が冷たい。濡れた青草を積み、農具の光ったリヤカーを引いて戻って来た久左衛門の長男の嫁は、川の流の傍で私に丁寧なお辞儀をした。健康に赤らんだ円い顔で、黙って立って礼をする夕暮どきの透明さ。私も思わずミレーになったような清浄な気持ちを覚え、彼女の幸福ならんことを願って礼をした。やはり晩鐘の美しさは誰にも一日に一度は来ているのだ。

 久左衛門の家へ入ると、彼は風呂から出たばかりで、ふんわりと丹前をかけ炉の前に坐っている。支那の学者のような穏かな顔になったり、厳しいリアリストの眼になったりする彼の表情を見ながら、この久左衛門は、六十八で、今一生のうち一番幸福の絶頂にいるのではないかと私は思った。不足なものは何一つない。子供たちの誰もが出征せず、持ち物の値は騰るのみだ。極貧からとにかく現金の所有にかけては村一番になっている。村の秘密を知っているものも彼ただ一人だ。経済のことに関する限り、彼を除いて村には知力を働かせるものもない。すること為すこと当っていって、他人が馬鹿に見えて仕方のない落ちつきで、じろりじろりと嫁を睨んでいれば良いだけだ。肩から引っかけた丹前の裾の、富士形になだれたのどかな様子が今の彼には似合っている。
「明日から大工が廂《ひさし》を上
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