金銭ではないと思ったが、長男の月給はなおさらだ。
「一回月給を貰って、忽ち馘とは、これはまた無常迅速なものだね。しかし、おれのときよりお前の方が多いから、豪いもんだ。」
 私は嬉しくなったので妻に参右衛門の仏壇へ状袋を上げてくれと頼んだ。
「あたしもそう思っていたんですのよ。でも、ここのは他家のお仏壇でしょう。かまわないかしら。」
「どこでも同じさ。」
 私はやはり死んだ父に最初の子供の月給は見せたくて、こんなときは誰もするようなことを、争われず自分もするものだなと思った。そのくせ自分が最初に貰ったときは、家に仏壇もあるのに帰途忽ち使ってしまったが、子供の月給となると、そうも簡単になりかねて、眼の向くところほくほくして来るのは、何とも知れぬ動物くさい喜びで気羞しいのは、これはまたどうしたことだろうか。
「お前は夜おそく毎日帰って来たからな。あの長い真暗な泥路よく帰れたもんだ。」
 私はそんなことは云わないが、どうも内心絶えずそう云っているようで、ふとまた自分の父のことも思い出したりした。私の父も表面さも冷淡くさく何事も色に出したことはなかったが、私の二十五歳のとき、「南北」という作品を私が初めて「人間」へ出してもらって父に送ってみると、京城でそれを読んだ父は、嬉しさのあまりその晩脳溢血でころりと死んだ。私の「南北」は発表後さんざんな悪評で、一度でぺちゃんと私は叩き落された。以来私にとって「人間」は人生喜劇の道場となり、いまだにここは鬼門だが、鬼こそ仏と思うようになったのは、それから二十年も後のことである。歳月のままの表情というものは涙でもなければ笑いでもない。
「お前その月給何に使うんだい。」と私は子供に訊ねた。
「僕これで東京へ帰るんだよ。早く帰って、ピアノ弾きたいなア。いいでしょう、さきに帰ったって。」
「うむ。」
「この間お小遣いもらったの、十円だけ返しとこうか。」
 何を云い出すやら。私はぽかんとして見ていると、
「だって僕、早く返しとかないと、使っちまうよ、一枚だけね。」
「まアまア、大変なことになったわね。」と妻は傍で聞きながらそう云って、仏壇からまた降ろして来た袋を子供に渡した。
「はい。十円。」
 子供は一枚出して私にくれてから、また残りを大切そうに服のボタンの間に押し込んだが、受けとってはみたものの、失敗った、私は一度も父へはそんなことをした覚えの
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