されているこの苦境を切り抜けようとする参右衛門の苦策は、誰より先に、自分自身が彼を攻撃することだ。妻と村とに絞めつけられた脂肪が、赭黒く顔に滲み出し、髭も伸び放題だ。
「もう死ぬ。もう死ぬ。」
 そんな声も、米の無い借り歩き組の主婦の口から洩れて来る。久左衛門の門口や裏口は、こんな主婦たちに攻められ通しだが、今はもう誇張ではない、雨の中の呻《うめ》きになった「もう死ぬ。」だ。

 夜中から暴風になる気配がつよく、ざわめく空の怪しげな生ぬるさ、べとついた夜風が部屋の底を匐っている。眠ってしまって誰もいない炉灰の中から、埋めてある薪がまたゆらゆらとひとり燃え始めた。起きているのはその焔ばかりだ。広い仏壇の間では、宵に清江の摘み終えた紫蘇の葉が、縮れた窪みにまだ水気を溜めて青青と匂っている。
 私は眠れぬので幾度も起きて雨雲を見た。ますます暗くなるばかりの雲の迅さ、黒い速度のような鈍い唸《うな》りをあげて通る風に背を向け、炉端にひとり坐っていると、いつか読んだ、「生《な》まのままの真は、偽《に》せよりも偽せだ。」というヴァレリイの言葉がふと泛んで来た。何という激しい爆裂弾だろうか。いよいよ来るぞと私は思った。何が来るのか分らぬながら、とにかく来ると思って、焔を見ながら坐っていた。

 生まのままの真は偽せよりも偽せだ。(ヴァレリイ)――この言葉はたしかに高級な真実である。しかし、この高級さに達するためには、どれほど多くの嘘を僕らは云い、また、多くの人の真実らしいその嘘を、真実と思わねばならぬか計り知れぬ。それにしても、ヴァレリイは死んだと聞く。真偽は分らぬが、風の便りだ。嘘だと良いが。

 九月――日
 暴風で竹林が叫び、杉木立が風穴をほって捻じまがっている。山肌が裏葉をひんめくらせて右に左に揺れ動き、密雲の垂れ込んだ平野の稲は最後の叫びをあげている。頭が重く痛い。牛のもうもう鳴きつづけているのが警笛のようだ。炉の中では、焚火が灰の上を匐い廻って鍋が煮えない。開けた雨戸をまた閉める音。喚《わめ》き狂う風で、雨も吹っち切れて戸にあたらない。
 農村だのにどこもかしこも米がなくなっていて、もう死ぬ、もう死ぬと、露骨にそういう声声の聞えているところへこの雨だ。私のいる家の亭主は長男の嫁の家へ米借りに出かけて行く。労働の出来ないこんな悪日を利用して、主婦の清江は味噌取りに駅まで行
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