雨の波紋の中を泳ぎ廻っている――
千年の古さを保った貴品ある面面の石塊。どの屋根の上にも五つ六つの千木を打ち違え、それを泛き上らせた霧雨がぼけ靡《なび》いて竹林に籠っている。木を挽く音。
九月――日
雨はやまない。この雨で稲は打撃だ。ここで一時間でも良いさっと照らないと、稲は実にならず、茎ばかり肥る憂いあり。困ったことだという憂色が全村に満ちている。
主婦の清江は板の間の入口で、明るみの方を向いて坐り、田螺《たにし》を針でほぜくっている。参右衛門は朝から憂鬱そうに寝室に入って寝てしまう。山鳩のホッホー、ホッホーと鳴く声に、牛がまた丁度、空襲のサイレンと同じ高まりで鳴きつづける。
午後――雨に濡れた青紫蘇をいっぱいに積み上げた中で、清江はその葉を一枚ずつむしりとる。芳香があたりに漂っていて、窓から射すうす明りに葉は濡れ光っている。紫蘇の青さが雨滴を板の間にしみ拡げてゆく夕暮、雨蛙が鳴き、笊《ざる》につもった紫蘇の実の重い湿りにあたりが洗われ、匂いつつ夜になる。ホッホー、ホッホーと、山鳩のまだ鳴く雨だ。穏かでない、重苦しい夜の雨――
九月――日
どこの農家もますます米が無くなって来た様子だ。馬鈴薯と南瓜で食べつなぐ家が多くなる。こんなとき芋を売る家は、米があるからだとすぐ分る。去年の供出に際して、持っているのに無い顔を装ったものの、露われてゆくのも今だ。米が無いということは、一種の誇りになり変って来ているのも今だ、各自の米を借り歩く不平貌に、ある物まで伏せてみせねばならぬ、急がわしげな歩調の悩みもある。明らかに有ることの分っている家へ集まる恨みから、超然とはしがたい苦しさや、いや、たしかに自分の家だけは無いという堅苦しい表情など、それらが雨の中をさ迷い歩く暇の間も、村の共同精米所だけは、どこにどれだけあるか、無いかを睥《にら》んだ静けさで、ひっそりと戸を閉めつづけている無気味さだ。
九月――日
早朝の空を見上げ、雲間から晴れの徴候を見てとると、いつも黙っている清江もひと声、
「もやもやしてるのう。天気だ。」
と云う。しかし、それも間もなくかき曇って来る。
二三日前からの悪天とともに続いて来ている不平が、村をかく苦しみに落した実行組合長の兵衛門に対い、集中して来た。参右衛門の家の炉端に集った貧農組も、口口に彼に悪態をついている。清江の実家の攻撃
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