ない。たとえそれは間違ったものに祈ったとしても、そこに間違いなどという不潔なものなど、も早や介在なし得ない心でしたのである。それは狐にしようと狸にしようと、それ以外には無いのだから通すところのものはどうでも良い、有るものを通して天上のものへしていたのにちがいないのだ。ここに何ものも無い筈はない。
 おそらく以後進駐軍が何をどのようにしようとも、日本人は柔順にこれにつき随ってゆくことだろう。思い残すことのない静かな心で、次ぎの何かを待っている。それが罰であろうと何んであろうと、まだ見たこともないものに胸とどろかせ、自分の運命をさえ忘れている。この強い日本を負かしたものは、いったい、いかなるやつかと。これを汚なさ、無気力さというわけにはいかぬ。道義地に落ちたりというべきものでもない。しかし、戦争で過誤を重ね、戦後は戦後でまた重ねる、そういう重たい真ん中を何ものかが通っていくのもまた事実だ。それは分らぬものだが、たしかに誰もの胸中を透っていく明るさは、敗戦してみて分った意想外な驚愕であろう。それにしても人の後から考えたことすべて間違いだと思う苦しさからは、まだ容易に脱けきれるものでもない。

 防空壕に溜った枯葉の上へ、降り込む氷雨のかさかさ鳴る音を聞きながら、私は杜甫を一つ最後に読もうと思って持ち込んだこともある今年の冬だ。しかし、今は、戦争は停止している。私のここで見たものは一人の白痴だ。

 この白痴は参右衛門の次男である。先ずその日その日が食べられるというだけの、貧農のこの家の生活を支えているのは、二十三歳になるこの白痴だ。名は天作、彼は朝早く半里もある駅の傍の白土工場へ通い、百円の賃金を貰っている。参右衛門の怠けていられるのもこのためだ。天作は身体が父に似ていて巨漢である。無口で柔順で、稀な孝行もので、良く働き、何の不快さもない静な性質だ。およそ他人に害を与えない人物でこれほど神に近いものはないだろう。彼の仕事も三人力で、山から白土を掘り出すのだが、この土は武田製薬の胃薬の原料になるものだ。戦時中も今と同様に働き通したが、天作の掘り出した白土は、どれほど多くの人の胃袋へ入ったことだろう。あの酒を吸収して酔漢をなくするノルモザンがこの白土だ。天作は白痴のため戦争など知らない。自分の得た賃金を参右衛門の酒代にすっかり出し、代りに彼から煙草を四五本ケースへ入れて貰うと
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